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皇帝とフランス王の激突 ・ パヴィアの戦いと第1次ウィーン包囲戦

みなさんこんにちは。

「中世最後の騎士」と呼ばれた偉大な祖父マクシミリアン1世から、神聖ローマ皇帝位とヨーロッパ各国にまたがる広大な領土を受け継いだカール5世ですが、彼はその時まだ19歳でした。しかし領土などはともかく、決して最初からその帝位を順風満帆に受け継いだわけではありませんでした。なぜなら神聖ローマ帝国において皇帝を選出するのは7人の選帝侯たちであり、彼らの選挙によって過半数(つまり4人以上)の賛同を得た者が皇帝となる事が出来たからです。

590px-Emperor_charles_v.png

上が神聖ローマ皇帝カール5世の壮年期の肖像画です。(1500~1558) 

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このカール5世とスペイン・ハプスブルク家について詳しくお知りになりたい方は、上の2冊の本が良書です。上の本はページ数も150ページ余りで、さらりと知識を得るにはちょうど良いと思います。下の本はさらに詳しいものでページ数は約390ページ。中世ヨーロッパとりわけ神聖ローマ帝国とハプスブルク家の権威である江村洋教授の著作です。

実はこの皇帝選挙にはカール以外にもう一人の強力な候補者がいました。それは何を隠そう時のフランス国王フランソワ1世です。

FRANCO~1

上が当時のフランス国王フランソワ1世です。(1494~1547)彼はフランス第4王朝ヴァロワ朝第9代国王で、あの天才芸術家レオナルド・ダヴィンチの晩年のパトロンとなった事でも知られていますね。 彼がフランス王でありながらドイツの皇帝選挙に名乗り出たのは、実際に皇帝になりたいというよりも、ドイツとスペインを領土とするカール5世のハプスブルク家によってフランスが挟み撃ちに遭ってしまうのを嫌ったためともいわれています。(史実は彼の恐れた通りそうなってしまいますが。)

両者は帝位をわがものとするため、莫大な金を使って選帝侯たちの買収合戦を繰り広げます。(すでにとうの昔から行われていましたが、今回はそれまでの規模とは比較にならない資金が使われた様で、さぞや選帝侯たちはウハウハだった事でしょうね。笑)結局最終的にこの争いはカール5世の勝利に終わり、フランソワ1世は落選してしまいました。

しかしカール5世は皇帝となっても、とても手放しで喜べる状態ではありませんでした。なぜなら皇帝選挙で選帝侯たちを買収するために、なんと当時のスペイン王国の国家予算の5年分もの大金を投じてしまい、その全てが借金であったからです。それだけではありません。彼は先帝である祖父マクシミリアン1世が晩年の大小の戦いで、傭兵たちの賃金の支払いのために作ってしまった膨大な負債も相続していました。つまり「大借金王」だったのです。

カール5世はこの膨大な負債を少しでも清算するため、彼にとっては馴染みの薄いスペイン各都市に、上納金と売上税の課税を命じます。皇帝の強引かつ一方的な課税にこれらの都市は反発し、1520年コムネロスの反乱と呼ばれる大規模な乱が勃発します。しかしカール5世は断固武力によってこれを覆滅し、1年余りで全スペインを手中に収めました。

ともあれ最初の混乱を鎮め、皇帝として華々しいデビューを飾ったカールでしたが、それを快く思わない人物がいました。それはかつて皇帝選挙でカールと帝位を争ったフランソワ1世です。彼は帝位が手に入らないのなら、せめて歴代フランス王が成し遂げられなかったイタリア領有をなんとしても実現すべく、イタリアへとその手を伸ばして幾度も軍勢を南下させ、それを阻止せんとするカール5世との間で激しい戦いを繰り広げます。

そして1525年2月、カールとフランソワはイタリアの領有をかけ、北イタリアにおいてついに激突しました。「パヴィアの戦い」の始まりです。両軍の戦力はカール5世率いる帝国軍2万4千、対するフランソワ1世率いるフランス軍もほぼ同数で兵力は互角でしたが、帝国軍の小銃と長槍を効果的に使った戦術によりカール5世が勝利し、総崩れとなったフランス軍は帝国軍の10倍の8千もの死傷者を出し、その上あろうことか総司令官であるフランソワ1世自身が捕虜になるという決定的な敗北を喫します。

Battle_of_Pavia_1525.png

上が「パヴィアの戦い」を描いた当時の絵です。帝国軍が無数の長槍でフランス軍を撃破する様子がお分かりいただけると思います。

勝った皇帝は捕虜にしたフランス王を投獄し、王に対して釈放して欲しくば全イタリアはもちろんブルゴーニュ、ミラノ、フランドルなどから手を引くよう要求し、1526年フランソワ1世はやむなくこの屈辱的な要求を受け入れてようやく釈放されます。(マドリード条約)

しかし皇帝カール5世は完全に騙されました。なぜならフランソワ1世は釈放されるとあっさり約束を破り、条約を破棄したからです。そしてこの後もこの2人は「生涯のライバル」として戦火を交え続ける事になります。

皇帝カール5世の敵はフランス王だけではありませんでした。帝国内には腐敗したローマ教皇庁への批判と宗教改革を唱えるマルティン・ルターの興したプロテスタント勢力が瞬くうちに帝国諸侯を二分し、新旧キリスト教徒の対立が大規模な内乱を引き起こしていました。当然カトリックの保護者である神聖ローマ皇帝は旧教すなわちカトリックのローマ教皇庁を守らなくてはなりません。しかしカール5世はフランソワ1世その他大小の敵との戦いに追われて対応が遅れ、時が過ぎるうちにプロテスタント勢力は勢いを増し、1530年に「シュマルカルデン同盟」を結んで、皇帝に対して公然と反旗を翻しました。

本来なら皇帝自身がこの反逆者たちを討つのが正等ですが、先に述べた様にカール5世はあまりに多忙でした。そのため弟のフェルディナントをドイツ方面の自分の名代として政務を任せる様になります。(このフェルディナントはやがて兄カールの退位後皇帝となります。)

そして1529年、皇帝カール5世にとってさらに強大な敵が東から迫って来ました。オスマン帝国の襲来です。

Siege_of_Vienna_1529_by_Pieter_Snayers.jpg

hoefnagel.jpg

上はウィーンを包囲したオスマン軍と、城壁や堀に囲まれた当時のウィーンの様子です。(第1次ウィーン包囲戦)

このオスマン帝国は第7代スルタンであったメフメト2世の時代の1453年に、三重の大城壁に護られ、難攻不落の代名詞であったビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを、圧倒的な大軍と物量にものを言わせて攻め落とし、新たにこれを自分たちの都としてからも領土を拡大させ、ついに1529年、メフメト2世の孫である第10代スルタン、スレイマン1世率いる10万余の大軍がドナウ川を越え、ウィーンへと侵攻して来たのです。


このウィーン包囲戦については、あたかもオスマン帝国が勝手に攻め上って来たかのように思われがちですが、実は裏でフランス王フランソワ1世が仕掛けたものでした。彼はカール5世を挟み撃ちにするため、あろう事か異教徒のオスマン帝国と同盟してまでカールを追い詰めようとしたのです。(つまり「敵の敵は味方」という論理ですね。)

オーストリアとその都ウィーンはハプスブルク家の本拠地です。カール5世はなんとしてもこれを死守すべく、なんと対立するプロテスタント諸侯と和睦し、足りない兵力を補うため、彼らの信仰を許す約束までして援軍をウィーンに送ります。(といってもこれは一時しのぎであり、オスマン軍を追い払えば再びプロテスタントを弾圧するつもりでした。)また籠城するウィーン市民やハプスブルクのウィーン防衛軍も頑丈な城壁を盾に善戦したため、結局オスマン軍のウィーン攻略は失敗し、スレイマン1世は全軍に撤退を命じて戦いは終わりました。

なぜこの時オスマン軍は、コンスタンティノープルの時の様にウィーンを陥落させる事が出来なかったのでしょうか? その理由は2つ考えられます。1つはコンスタンティノープルと違ってウィーンは内陸であり、10万余の大軍を維持する大量の兵糧の補給が難しかった事です。(コンスタンティノープル攻防戦の時は大船団で大量に運べましたが、陸上戦では牛馬に引かせた荷車に頼らざるを得ず、運べる量が段違いで需要と供給が追いつかなかった様です。)

もう1つの理由は戦闘が10月に行われたため、緯度の高いオーストリアではすでに晩秋に近い寒さで、暑さに慣れた南国育ちのトルコ兵たちには耐え難かった事などが挙げられます。

ともあれオスマン・トルコの脅威を1度は退ける事が出来た皇帝カール5世は、この後も宿敵フランソワ1世の仕掛ける有形無形の戦いに敢然と立ち向かい、彼は広大な帝国内を駆けずり回る事になります。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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