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世界の支配者カール5世 ・ 太陽の沈まない?帝国

みなさんこんにちは。

1529年、宿敵フランソワ1世の謀略によってオーストリアにまで侵攻して来たオスマン・トルコ軍を撃退し、何とか彼らのウィーン攻略を阻止した神聖ローマ皇帝カール5世でしたが、その後もオスマン帝国との戦いは続きました。当時このオスマン帝国は第10代スルタンであるスレイマン1世のもとで最盛期を迎えており、地上戦では敗れた(というより都合で撤退した)ものの、彼らは次なる戦いを海上に求め、地中海の制海権を狙って大艦隊を繰り出してきました。

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上が当時のオスマン帝国のスルタン(君主)スレイマン1世(1494~1566)とオスマン帝国の領域図です。

皇帝カール5世はこの脅威に対抗するため、1535年歴代皇帝として始めて地中海を越え、北アフリカのチュニス(上図参照)にまで遠征してこれを粉砕します。しかしこの勝利は一時的なものに過ぎず、再びオスマン軍は態勢を立て直し、今度は大艦隊で海上決戦を挑んで来ました。

これに対し、さすがにヨーロッパ諸国は危機の重大さの一致に達し、恩讐や対立を一時的に凍結して1538年 「対イスラム神聖同盟」 を結び、神聖ローマ帝国、ローマ教皇国、ヴェネツィア、ジェノヴァなどの4カ国で連合艦隊を編成し、ここに「プレヴェザの海戦」の幕が切って落とされます。 戦場はギリシアの西、レフカダ岬です。

Battle_of_Preveza_(1538).jpg

上が「プレヴェザの海戦」の様子を描いた絵です。この戦いにおける両軍の戦力は、ヨーロッパ連合艦隊がおよそ6万の兵と、軍船162隻であったのに対し、海軍力の弱いオスマン帝国は海賊を味方に付け、およそ2万の兵と、軍船122隻というものでした。数の上ではヨーロッパ連合艦隊が優勢でしたが、混成艦隊であったために連携がうまくいかず、ヨーロッパ側は50隻の軍船を失い、3千の捕虜を出して早々に撤退し、対するトルコ側は戦死400名、負傷800名程度で、この戦いの結果地中海の制海権はトルコが掌握する事になりました。

この戦いで地中海の制海権を失ったカール5世は、その後も剛毅不屈の精神で諦める事無くオスマン帝国と戦い続けますが、それによる莫大な戦費が彼に重荷となってのしかかっていきます。

さて、この時点におけるカール5世の勢力範囲はどの程度だったのでしょうか?前々回からお話している様に、彼は祖父や父から、帝位の他にヨーロッパの複数の王位とその領土を継承していました。

Empire-Roman-Emperor-Charles-V.jpg

上がこの時代におけるカール5世の支配地です。彼は神聖ローマ皇帝でしたから、まずドイツとその周辺国 (黒い太線が当時の神聖ローマ帝国の領域) が入ります。そのうちオーストリア、スイス(黄色の部分)ネーデルラント(オレンジ色の部分)などがハプスブルク家の直轄領でした。また彼はスペイン王でもあったので、イベリア半島のポルトガルを除く部分と南イタリアのナポリ・シチリア王国、サルデーニャ王国、北イタリアのミラノ公国(小豆色の部分と赤の部分)も支配していました。

さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、大海洋王国となったスペイン、ポルトガルが南北アメリカ大陸とアフリカ沿岸部、インド、東南アジアに植民地を獲得中でした。またカール5世はポルトガル王の王女イザベルを皇妃として迎えていたのでポルトガル王位の継承権も持っており、その気になればポルトガルも支配下に置く事が出来たので、(彼はそこまではしませんでしたが。)それらも含めると彼の影響力が及ぶのは下の図の様になります。

640px-Iberian_Union_Empires.png

上の図は、彼の息子フェリペ2世の時代に完成される事になりますが、このカールとフェリペ親子2代80年に亘る時代がスペイン・ハプスブルク家の絶頂期となります。 また彼らの帝国を歴史の世界では「太陽の沈まない帝国」といささか大げさな表現で表される事が多いのですが、これは単純にその繁栄ぶりを太陽に例える意味の他に、上の図をご覧頂ければお分かりの様にスペイン、ポルトガルの広げた海外領土が地球をぐるりと一周してしまうほど広大なものであるために、彼らの支配地では「いつもどこかで太陽が昇っている。」事から付けられたものであるそうです。

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上は怪力のヘラクレスの捧げ持つ地球儀を握り、黄金の帝冠を頭上に置いて「全世界の支配者」としての皇帝カール5世の姿を描いたものです。(なぜかヘラクレスが少年として描かれていますね。カール5世の威厳を現すためでしょうか?)

しかしこの様な表面上の栄光とは裏腹に、カール5世の治世は前回から述べている通り、宿敵フランソワ1世やオスマン帝国などの強大な敵とのいつ果てるとも知れない戦いの連続でとても多忙なものでした。さらにこれも前回触れた事ですが、彼は皇帝即位の際に選帝侯の買収に使うためと、祖父から相続したものも含め莫大な借金を抱えており、それが払い切れないうちに次々と現れる敵との戦いにかかる膨大な戦費が彼の大きな悩みでした。

あれだけの広大な植民地を世界中に持っているのだから、そんな借金などすぐに完済してしまえばいいのにと思われるかもしれません。 確かにカール5世は上の地図の様にあり余る領土を持ち、特に南北アメリカ大陸で先住民やアフリカの黒人の人々を奴隷として酷使して産出された金銀が大量に船でスペイン本国に運ばれました。 しかしカール5世の負債はそうして得られた金銀をはるかに越える巨額のものだったのです。

そのため、せっかく海外から運ばれた金銀も彼の負債の返済や利払いですぐに債権者である商人たちに渡ってしまい、絶えず続く周囲の敵との戦いの戦費でまた新たな負債を作ってしまうために一向に元本が減らず、王家の国庫は常に空っぽの状態だったそうです。 また新大陸からもたらされた金銀のうち、特に銀の量がはるかに多く、その結果ヨーロッパでは主要通貨であった銀貨の価値が大きく下がってしまい、いわゆるインフレによる経済混乱を招いた事も見逃せない事実でしょう。 ともかくこうした「お金の問題」は皇帝カール5世を終生悩ませました。

ここでだいぶ話は脱線しますが、もう一つ彼にまつわるお話をして置きましょう。 それはカール5世の有名な 「あご」 の話です。 実はこのカール5世、これまでに当ブログで載せてきた肖像画でもお分かりの様にとても大きなあごの持ち主で、こういう人を「下顎前突」(かがくぜんとつ)というそうです。

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これはご本人も気にしていた様で、後に立派なあごひげで隠す様になりますが、下顎が普通の人よりも大きいために重さでどうしても絶えず口が半ば開いた状態になっていたそうです。ただしこれは彼に限った事ではなく、当家の始祖ルドルフ1世以来このハプスブルク一族に遺伝として受け継がれた身体的特徴の典型であり、事実彼以外の歴代ハプスブルク家の皇帝たちの肖像画にもそれが顕著に現れています。これはハプスブルク家が近親結婚、すなわち限られた最上級の王家との政略結婚を繰り返したために発生した特異な例である様です。

これは日本でも似た様な一族がいます。かつて天皇家に次ぐ、わが国第二の名家であった藤原摂関家の流れを組む近衛家の一族です。 この一族は特にその「腫れぼったいまぶた」が特徴的で、現在は日本赤十字の名誉総裁をお勤めにあらせられる皇后陛下をお助けして理事か社長などを歴任している現当主の近衛忠輝氏や、戦前の元首相近衛文麿公爵をはじめ、そのひ孫である細川護熙元首相など、皆さんとても良く似ています。これも当家が戦前から名門中の名門であった事から、それに見合った身分の名家(必然的に親戚同士)との近親結婚が繰り返された結果であると思われます。

次回に続きます。
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