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アウクスブルク反逆事件 ・ カール5世の退位

みなさんこんにちは。

新大陸から東南アジアまで、地球を一周してしまうほどの広大な海外領土を持ち、正に当時の 「世界の支配者」 となっていた神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、1538年にオスマン帝国との地中海の制海権をかけた海戦に敗れはしたものの、その損失は物理的には大して痛いものではありませんでした。 なぜなら先に述べた様に大航海時代の到来によって、すでにヨーロッパ世界はそれまで地中海を経由してしか手に入れる事が出来なかった東洋の産物などを、船団を組んで自由に往来し、好きなだけ運ぶ事が出来たからです。

そしてそれは同時に、それまで地中海とその周辺という「地域」で歴史が動いていた時代から、全世界が一つのつながりを持つ歴史を共有する時代の始まりでもありました。

しかし世界の歴史がその様にマクロ的に変化していたにもかかわらず、わが愛すべき神聖ローマ帝国においては相変わらず皇帝と帝国諸侯の権力争いが続き、さらにそこに宗教改革という複雑怪奇な要素が絡み合い、皇帝カール5世を大いに悩ませていました。

カール5世率いるカトリック派は反カトリック(プロテスタント)を弾圧、プロテスタント勢力はそれに対抗して「シュマルカルデン同盟」を結成し、両者は幾度も軍事衝突を繰り返していました。 皇帝はこの戦いに決着を着けるため、プロテスタント諸侯の指導者であったザクセン公ヨハン・フリードリッヒの親族に当たるモーリッツに対し、ザクセン選帝侯の位を与えるから自分の味方に付く様説得し、モーリッツは皇帝の誘いに乗って同盟を裏切ります。

Maurice_de_saxe.jpg

上が新ザクセン公モーリッツです。(1521~1553)彼の寝返りによって、シュマルカルデン同盟は大きな亀裂が走り、皇帝に敗れることになります。モーリッツはそれ以外の戦いでも皇帝の勝利に大きく貢献し、カール5世はザクセン公の位を与えて彼を厚遇するようになります。

モーリッツを味方に付けた皇帝は、1547年ミュールベルクの戦いでプロテスタント軍を破り、首魁であったヨハン・フリードリッヒら主だった諸侯を捕える事に成功しました。 勢いに乗った皇帝はこの機を逃さず、アウクスブルクに帝国議会を召集すると、全帝国諸侯に対して、ルターの唱えた新教すなわちプロテスタント思想を捨てて、本来のカトリックの教えに立ち帰る事を要求し、従わなければ「攻め滅ぼす」と迫りました。


Augsburger-Reichstag.jpg

上がこの時のアウクスブルク帝国議会の様子を描いた当時の版画です。 居並ぶ諸侯たちの背後には皇帝軍の兵士たちが槍を構えて彼らを取り囲み、また議場の外にも皇帝の大軍が包囲していました。諸侯たちには成すすべもありません。従わなければ滅ぼされるのです。彼らはやむなく皇帝の突き付けた条件に従います。

正にこの時こそ、皇帝が全ての帝国諸侯を従えるという歴代皇帝の念願を初めて果たす事が出来た瞬間でした。神聖ローマ帝国の成立以来、初めてそれが実現されたのです。そして同時にこの時が、カール5世が世界の頂点に登り詰めた時でもありました。

しかしこの世の頂点に立ったカール5世は思いもかけない所から一転奈落の底へと突き落とされる事になります。1552年、あろう事かカールがもっとも信頼していたザクセン公モーリッツが皇帝を裏切り、配下の手勢でクーデターを起こして皇帝を捕らえようとしたのです。アウクスブルクの本陣で油断していた皇帝は、幸いモーリッツとその軍勢の異変を察知した家臣の知らせで直ちに脱出し、取るものも取らずインスブルックへ逃亡したので間一髪の所で難を逃れましたが、(その差はわずか数時間だったそうです。)これによりせっかく討ち従えたプロテスタント諸侯が再び息を吹き返してしまい、何より最も信頼していた臣下の裏切りに皇帝は計り知れないショックを受けました。

なぜザクセン公モーリッツはこの時地上の最高権力者であり、自分を引き立ててくれた皇帝に対して謀反を起こしたのでしょうか? それはもともとモーリッツがプロテスタントであった事に関係があります。 カール5世はプロテスタント勢力を従えるためにモーリッツを利用したのですが、そのモーリッツ自身も皇帝を利用して自らの立身出世と広大な領地を獲得する事が出来たのでした。

しかしそんな彼も皇帝の独裁による帝国支配は望んではいませんでした。彼も他の帝国諸侯と同じ様に皇帝というものは自分たちに利益を与えてくれる存在というだけで良かったのです。 それにそもそもシュマルカルデン同盟を瓦解させたのは、彼が駆けずり回って他のプロテスタント諸侯を説得したおかげという側面が大きかったのですが、カール5世は早々に降伏したその者たちを幽閉したままで、いくらモーリッツが取り成しても釈放せず、またその中には彼の親族も多かったのです。

皇帝の横暴なやり方にモーリッツの中のプロテスタント魂に火が点きました。彼は新たにプロテスタント勢力の代表になると、それだけでは勝てないので、皇帝をけん制するためにフランス王アンリ2世と帝国領の一部割譲をえさに同盟までしてカールに対抗します。(但し彼はこのフランスへの割譲など最初から破棄するつもりだったそうです。)しかしそこまでする事は無かった様で、すでに皇帝カール5世のショックは凄まじく、彼は弟のフェルディナントに調停を任せて寝込んでしまいました。

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上がカール5世の弟フェルディナントです。(1503~1564)彼はプロテスタントに対して兄カールより穏健派でした。フェルディナントはハプスブルク家の態勢を立て直すため、モーリッツとカトリック、プロテスタント双方の共存を約した「パッサウ条約」を締結し、事態は沈静化に向かいました。(その後一連の首謀者であるザクセン公モーリッツは、パッサウ条約に従わないカトリック諸侯との戦いで1553年に戦死してしまいます。 まだ32歳の若さでした。)

皇帝カール5世はこの条約に大いに不満でしたが、情勢は皇帝に完全に不利でした。結局彼は弟フェルディナントに説得され、1555年因縁の地アウクスブルクで再び帝国議会を開き、プロテスタントの存在と権利を認めるのです。事実上の皇帝の敗北でした。(アウクスブルクの和議)

Charles_V,_Holy_Roman_Emperor_by_Tizian

この会議の後皇帝カール5世は完全に気力を失い、また持病の痛風の悪化も相まってまだ50代半ばにも拘わらずすっかり老け込んでしまいました。そしてあまりにも広大すぎる彼の帝国の統治に精根尽き果てたかのごとく翌年の1556年、故郷のネーデルラントで弟フェルディナント以下のハプスブルク一族を集めて皇帝を退位する事を宣言し、帝位と神聖ローマ帝国を弟フェルディナントに譲り、長男フェリペにはスペイン王位とスペイン王国を譲って帝国を二分してしまいました。こうしてカール5世の世界帝国はあっけなく終わったのです。

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在位中の皇帝が自らの意思で退位するなど、神聖ローマ帝国の歴史上初めての事でした。しかし帝国はすでにとうの昔に皇帝の手を離れており、何の支障もありませんでした。カール5世は第二の故郷スペインのマドリード郊外、サン・ユステ修道院(上の画像の閑静な邸宅です。)に側近の家臣60余名とともに隠棲し、時折息子フェリペ2世らの訪問を受けながら、早くに亡くした妻イザベラの肖像画(上の画像の美しい女性です。1503~1539 ポルトガル王女で、カール5世はこの妻を大変愛しました。)を眺めながら静かな晩年を過ごします。その姿はかつて地上最強の皇帝であった人とは思えない、一人の疲れ果てた老人の姿だったそうです。そして2年後の1558年9月、58歳で亡くなりました。

次回に続きます。
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