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ハプスブルク家の分裂 ・ スペイン家とオーストリア家

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国史上最も広大な領土を治め、かつその帝国を維持するために次々と現れる敵と戦い続けた皇帝カール5世が、その多忙さと持病の痛風に疲れ果て、退位してから2年後に崩御すると、ハプスブルク世界帝国は弟フェルディナントのドイツ・オーストリアと、長男フェリペのスペインに分かれる事になりました。

2つに分かれたハプスブルク家のうち、その後大きく繁栄したのは後者のフェリペ率いるスペイン・ハプスブルク家で、父の退位で正式にスペイン国王フェリペ2世となった彼のもとで、スペイン王国は大海洋帝国として繁栄を謳歌するのですが、そちらのフェリペ2世のスペインについての話は有名であり、それはいずれ別の機会に詳しく述べたいと思うので今回は割愛させていただくとして、今回はその叔父であり、先帝カール5世の弟であるフェルディナントのオーストリア・ハプスブルク家についてお話したいと思います。

カール5世は亡くなる2年前に退位し、1556年に神聖ローマ帝国とその帝位を信頼する弟フェルディナントに譲りました。(これにより彼は皇帝フェルディナント1世として即位します。)

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上が新皇帝フェルディナント1世です。(1503~1564)彼は兄カールより3歳年下で、兄とは仲も良く、兄カールが皇帝在位中はその右腕として影に日向に兄を良く支えた忠実な弟でした。また彼は兄と違って戦よりも政治、外交に長けていた様で、長く兄カールを悩ませたプロテスタントに対してはその考えも理解尊重し、カトリックとの共存を約したパッサウ条約やアウクスブルク和平条約を成立させるなど、現実主義の実務家として評価出来る人物でした。

彼は皇帝となるとボヘミアとハンガリーへの支配力を強めようと画策し、独立心の強いハンガリーではオスマン帝国の妨害もあってうまくいかなかったものの、ボヘミアではある程度成功し、後のオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立は、この時に彼が築いた地盤の上に成り立つものでした。

Habsburg_Map_1547.jpg

上はフェルディナント1世の在位した時代、1560年前後のヨーロッパの地図です。 緑の部分がハプスブルク家の領土で、フェリペ2世のスペイン・ハプスブルク家がスペイン、ナポリ・シチリア、サルデーニャ、ミラノ、ネーデルラントを支配し、フェルディナント1世のオーストリア・ハプスブルク家がオーストリア、スイス、チロル、ボヘミア、ハンガリー、ケルンテン、ダルマチアなどを支配地としています。(いかに広大なものかご理解いただけると思います。 先帝カール5世が帝国を2つに分割した理由も統治機構を分けて分割統治した方が良いと考えたからです。)

スペイン家とオーストリア本家の2つに分かれたハプスブルク家でしたが、両家の関係は非常に良好で、緊密に連携を取りながらそれぞれの所領を統治していきました。 そもそも王家が2つに別れたのも、互いの反目や相続争いではなく、その方が広大すぎる領土の円滑な統治の実現に有利との認識で両家が一致しており、また何よりこのハプスブルク王家の遺伝的長所として、ごく一部の例外を除いて一門が代々とても仲が良かった事が挙げられます。

フェルディナント1世は兄カールともども明朗快活で肉親愛も強く、人間的にはとても良い人だった様です。 また時はルネサンス真っ盛りの時でもあり、特に料理や建築などの文化をオーストリアに広め、ウィーン初の料理学校を設立しています。 そしてここで学んだ人々によって豪華な宮廷晩餐会のレシピが数多く考案され、豊かな食文化がオーストリアに定着していきました。さらに彼は子だくさんでもあり、皇妃との間に4男11女なんと15人もの子を成し、娘たちの多くが名だたる王侯家に嫁ぎ、まさにハプスブルク家繁栄の源である「多産」の先駆けとなりました。 しかし彼は残念な事に在位わずか8年余りで亡くなってしまいます。

フェルディナント1世の死後、帝位は長男のマクシミリアンが継承し、マクシミリアン2世として即位しましたが、彼の時代に父フェルディナント1世らが苦労して結んだ条約などで束の間平穏だった神聖ローマ帝国に、再びカトリックとプロテスタントの対立の火種が生まれてしまいます。

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上が若い頃の皇帝マクシミリアン2世です。(1527~1576)彼は「中世最後の騎士」と呼ばれた偉大な曽祖父の1世にあやかり、同じ名を付けられましたが、彼の治世は言わば「迷走」と言っても良いほど不安定なものでした。なぜなら彼はカトリックの絶対的保護者である神聖ローマ皇帝でありながら、その思想はプロテスタント寄りだったからです。

新帝マクシミリアン2世は父である先帝フェルディナントと違い、ほとんどプロテスタントでした。父フェルディナントは自身はカトリックでありながら、現実的な理由でプロテスタントに妥協したに過ぎず、そのため彼は息子にカトリックでなければ帝位を譲らぬと生前から強く釘を刺していました。やむなく王子はカトリックに留まりますが、その父が亡くなると、帝位を継いだ彼は大手を振ってプロテスタントの保護と自由を認める政策を打ち出します。

しかし彼の政策はがちがちの厳格なカトリックであり、年上の従兄弟にあたるスペイン王フェリペ2世の大反対にあって断念せざるを得なくなります。 また帝国東部ハンガリー辺境においては、国境でオスマン帝国との小競り合いが延々と続き、これらのイスラム勢力の駆逐にも失敗してしまいます。

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上はオスマン軍とハンガリー軍との戦いの様子を描いた絵です。強大なオスマン軍に対してハプスブルク家の軍勢だけではこれらを撃退する事叶わず、皇帝はやむなくオスマン帝国スルタンに、キリスト教徒の保護のためと称して事実上の貢納金を払っていました。

彼は帝国皇帝として諸侯の兵も動員出来るよう帝国軍の実権を握ろうとしますが、今度はプロテスタント勢力が、先に皇帝がスペインの横槍でプロテスタント政策を断念した事への反発などで妨害したためにこれも失敗に終わります。

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上は晩年の皇帝マクシミリアン2世です。 細身の青年時代とうって変わり、年を取ってすっかり恰幅が良くなっていますが、残念ながら彼の在位中には政治、軍事両面において見るべき成果はほとんどありませんでした。しかしそんな彼ですが、学問や自然科学に大変造詣が深く、また父フェルディナント1世に負けぬ、9男6女15人の子に恵まれ、これらの子らを成長の後は各国の王侯と政略結婚させるというハプスブルク家の伝統を繋いでいます。

彼の場合は父フェルディナント1世の逆でどちらかというと娘より息子たちが多く、娘たちのうち2人をスペインとフランスの王家に嫁がせていますが、息子たちはネーデルラント総督やドイツ騎士団長など、いわゆる武人の道に進みました。しかしその彼の息子たちのうち、武系には程遠い長男である一人の変わり者が次の皇帝になった事で、ハプスブルク家と神聖ローマ帝国はまた一騒動起きる事になります。

次回に続きます。
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