稀代の変人ルドルフ2世 ・ 魔術を信じた皇帝

みなさんこんにちは。

アウクスブルクの和議で、一旦収束しつつあったカトリックとプロテスタントの対立は、時の皇帝マクシミリアン2世の政策の迷走により再び再燃し、その原因を作ってしまったマクシミリアン2世は結局それを解決する事が出来ずに1576年49歳で崩御してしまいます。

マクシミリアン帝は前回お話した様に子だくさんでしたが、帝位はその長男ルドルフがごく当たり前の事として継承し、彼はルドルフ2世として即位します。 今回はこのルドルフ2世が主人公です。

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上が神聖ローマ皇帝ルドルフ2世です。(1552~1612)以前カール5世の回でも触れましたが、このルドルフ2世も大伯父のカール5世同様ハプスブルク王家の人々の顔立ちの特徴である「大きな下あご」を受け継いでいますね。

彼は父マクシミリアン2世がプロテスタント寄りであった事を苦々しく思っていたスペイン王フェリペ2世の意向によって、少年時代をスペインの宮廷で過ごし、徹底的なカトリック教育を受けたために厳格なカトリック教徒として成長しました。 その結果皇帝となると父が行った宗教政策を廃し、徹底的にプロテスタントを弾圧していきます。 しかし、こんな一方的なやり方が通用する様な神聖ローマ帝国ではありません。 スペインで育った彼はあまりにも帝国の実情に対して無知でした。 これにより帝国内のプロテスタント勢力が一斉に反発し、彼らを敵に回してしまったからです。

中でも特にハンガリーの反発が激しく、1608年には大規模な反乱が発生します。しかしルドルフ2世は皇帝でありながら国政にはあまり関心を示さず、重臣たちに任せきりにしていたため、反乱の火の手は瞬く間に帝国中に広がっていきました。 その様な中で彼はハンガリー王位を弟のマティアスに譲り、(というより最も面倒なハンガリーの統治を弟マティアスに押し付けたと言った方が良いかもしれません。)ウィーンからボヘミアのプラハに遷都すると、巨大なプラハ城内の宮殿に引きこもってしまいます。

ここまで書くと、このルドルフ2世が無能な皇帝であるかの様に思われるかもしれませんが、宗教政策に失敗した初期の段階で、彼は200を越える帝国諸侯や帝国自由都市で構成されるこの神聖ローマ帝国という「怪物国家」に対して完全な統治など不可能と早々に見切りを付けてしまいました。 そしてまったく別の分野に自らの生きる価値を見出します。

それは芸術と学問という文化面でした。彼は政治には無関心でしたが並外れて教養に富み、多くの芸術家や学者を都プラハに招いて彼らを大いに保護しました。この時に皇帝が招いた学者で最も有名なのが、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーでしょう。

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上が天文学者ヨハネス・ケプラーです。(1571~1630)彼は、惑星は太陽の周りを楕円軌道を描いて周っているという「ケプラーの法則」で知られていますね。また彼は数学者でもありながら、占星術師でもあるといういさかか矛盾したキャリアの持ち主でもありました。

また美術面において、ルドルフ2世のお気に入りの画家はブリュッセル出身のピーテル・ブリューゲルです。

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上がピーテル・ブリューゲルです。(1525?~1569)彼の代表作で最も有名なのは下の「バベルの塔」でしょう。これは人間が天にも届く塔を建てようとして神の怒りに触れ、神は人間たちの言葉をばらばらにしてしまい、互いの意思の疎通が図れなくなった人間たちは塔を造り上げる事が出来なくなったという、旧約聖書の物語の題材で、きっと何かで見た方もいると思います。

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上が皇帝ルドルフ2世が居城としたプラハ城です。彼はこの巨大な城郭宮殿で、たくさんの芸術家や学者たちを招いては文化と学識談義に没頭していました。 中でもとりわけ皇帝の心を強く掴んだのが「錬金術」です。

この錬金術というのは、「鉛などから金を造り出そう。」という人間の欲望の浅ましさから生まれたなんとも幼稚な試みなのですが、すでに古代ギリシャ時代から行われていたそうです。しかしルドルフ2世は実際に金を造れるか否かという事よりも、錬金術で使われる様々な実験や道具類などに魅力を感じていた様で、プラハ城内に錬金術師を名乗る者たちを住まわせていました。

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上が当時の錬金術師の様子を描いた絵と、皇帝が彼らを住まわせていたプラハ城内の「黄金の小路」です。ルドルフ2世は皇帝でありながら結婚もせず、変人扱いされても一向に構わず時には彼らと錬金術の実験にのめりこみ、プラハ城はさながら「魔術の城」となっていました。

ルドルフ2世が帝国の現実に目を背け、ひたすら趣味に情熱を注いでいた頃、そんな兄の無責任ぶりに、最も腹を立てていたのが実弟であるマティアスです。彼は兄ルドルフと違って急進的な野心家であり、兄が国政を投げ出して趣味の美術やいかがわしい錬金術などに没頭する姿に我慢がなりませんでした。また隣国ポーランドの王位継承争いでも、せっかく東への領土拡大の好機であったのにも関わらず、兄ルドルフが何等の策も講じなかったために北方のスウェーデン王に取られてしまい、兄に対する怒りは頂点に達していました。

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上がルドルフ2世の弟マティアス・ハプスブルクです。(1557~1619)ハプスブルク王朝は代々親子兄弟一族みな仲が良く、それがこの王家の良い所でもあるのですが、その当家において彼と兄帝ルドルフ2世は残念ながら最も仲が悪い兄弟であった様です。 やがて彼らの対立は、弟マティアスによる兄の帝位剥奪という結果を招いてしまいます。

マティアスは1611年、ついに実力行使に出ます。彼は自ら軍勢を率いて兄のいるボヘミアのプラハに侵攻し、すでにその頃病身であった兄ルドルフに、帝位を自分に譲るよう要求しました。しかしとうに国政に絶望し、もはや帝位にも未練の薄かったルドルフ2世は弟の要求を受け入れ、翌年60歳で崩御しました。

先にこの2人の兄弟が仲が悪い事は述べましたが、だからといって弟マティアスは兄を投獄したり、まして処刑しようとまではしませんでした。ただ帝位を取り上げただけで、それ以外は余命の少ない兄を郊外の山城で自由にさせていました。これはこのハプスブルク家の人々にほぼ共通しているのですが、他の名門や王侯貴族たちが、王位や相続争いで親子兄弟骨肉相食む血みどろの戦をして、勝者が敗者とその一族をとても冷酷残忍に処刑して根絶やしにしている事が多いのに、このハプスブルク家の人々には、始祖ルドルフ1世以来その様な残酷非道な人物はほとんどいません。この様な点からも、この王朝が今でもヨーロッパでとても人気があるのが理解出来ますね。


さて、次の皇帝には目論見通りマティアスが即位し、彼は神聖ローマ皇帝となりますが、最初は威勢の良かった彼も、その後は自らが追いやった兄や歴代皇帝たち同様宗教問題に悩まされ、その上彼自身の治世も長くは続かず、結局即位からわずか7年余りの1619年に亡くなります。

ルドルフ2世は政治面では見る影もありませんでしたが、文化や学問では大きな貢献を果たしました。とりわけ晩年の彼がのめりこんだ魔術ともいうべき錬金術の様々な実験による副産物が、後の「化学」を生む土台となり、それがさらに産業革命へと発展する大きな原動力となっていったからです。彼の最後は実の弟によって帝位を追われるというショッキングな幕引きでしたが、もともと皇帝になど向いていなかった彼にとってはそれで良かったのかもしれません。 それによって彼は生まれた時から決められていた長くて重い重圧から解放され、亡くなるまでのほんのわずか数ヶ月ほどですが、好きな美術や学問を生まれて初めて心から楽しめたのでしょうから。

次回に続きます。
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