三十年戦争の転換点 ・ グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインの対決

みなさんこんにちは。

神聖ローマ皇帝フェルディナント2世率いるカトリックとプロテスタント勢力との戦いは、1618年のボヘミアにおける皇帝への反乱から始まりました。このボヘミア戦役は1623年に皇帝軍の勝利で終わり、皇帝はボヘミアを完全に支配下に置くと、「カトリックの守護者」を名目にハプスブルク家による絶対君主制の確立を目指して動き出します。

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上が当時の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世です。(1578~1637)

しかし初戦の勝利も束の間、劣勢に立たされたプロテスタント勢力の救援要請によって、1625年に北方からデンマーク王クリスチャン4世率いる2万余のデンマーク軍が北ドイツに侵攻し、戦争は新たな局面を迎えました。

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上が時のデンマーク王クリスチャン4世です。(1577~1648) 彼はデンマーク第6王朝オルデンブルク朝第7代国王で、父王の死により11歳で即位し、17歳から親政を始めて亡くなるまで54年間もの間善政を敷いた名君で、今でもデンマーク本国で人気の高い王様です。しかし彼の治世、対外的にはドイツ三十年戦争への介入の失敗と、それまで支配下に置いていたスウェーデンとの力関係が逆転し、デンマーク衰退のきっかけを作ってしまった面も否定出来ません。 (ちなみにデンマーク王家はわが国の天皇家に次ぐ、世界で2番目に長く続く古い王朝で、その起源はおよそ千年前の10世紀頃だそうです。しかしわが天皇家の様に1500年余の万世一系ではありませんが。)

皇帝フェルディナント2世はこの脅威に対し、取っておきともいえる「強力な切り札」を用います。それは皇帝が召し抱える傭兵隊長の中でも最大の兵力を有する人物、ヴァレンシュタイン将軍の北方派遣です。

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上が皇帝軍最大の傭兵隊長アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインです。(1583~1634)彼はもともとはドイツ系ボヘミア人の小貴族でしたが、青年時代からハプスブルク家に仕えてハンガリーでオスマン帝国と戦い、その後裕福な未亡人と結婚して彼女の遺産を金融業などで上手く運用して大きく財を増やし、その資金で大勢の傭兵たちを集めて力を蓄えていったとてもしたたかな人物でした。

皇帝はボヘミアの反乱に勝利したものの、そのために多額の戦費を使ってしまい、デンマーク王の侵攻に対処するのが困難でした。そこへこのヴァレンシュタインが資金供与と配下の軍勢の提供を申し出ます。皇帝は喜んでそれを受け、彼を皇帝軍総司令官に任命します。これはヴァレンシュタインにとっても立身出世の大チャンスです。すでに彼は大きな財力は持っていましたが、そもそも彼はボヘミアの小さな下級貴族に過ぎません。そんな彼が次に望んだのは家柄、すなわち名門貴族となって帝国諸侯の一員となる事でした。彼は金を惜しみなく投じ、なんと3万もの大軍を集めると1626年北ドイツへ出征しました。

一方北ドイツに侵攻していたクリスチャン4世も同じく2人の傭兵隊長あがりの将軍を使っていましたが、次第に彼らとの意見の相違から別行動を取るようになり、軍勢が3つに分かれてしまっていました。しかしこれはヴァレンシュタインにとって好都合でした。圧倒的に兵力に勝るヴァレンシュタインは、先遣部隊指揮官であった同じ傭兵隊長ティリー伯の軍と合流すると彼らと協力し、これらを各個撃破してデンマーク軍を撃退する事に成功したのです。それだけではありません。皇帝軍は勢いに乗ってデンマーク本国に侵攻し、ユトランド半島全域を占領するまでに至りました。

地上戦では敗退続きのデンマーク王クリスチャン4世でしたが、かつてバルト海を制した強力な艦隊で海から反撃に転じ、スウェーデンの力も借りて何とかデンマーク本国を取り戻すと、1629年、皇帝フェルディナント2世とリューベックで和平条約を結び、その後2度とドイツには現れませんでした。つまりこの戦いも皇帝とカトリック側の勝利に終わったのです。

一連の勝利によって皇帝フェルディナントの権威は高まり、1629年彼は「復旧令」を発しました。これはプロテスタントに奪われたカトリックの領土返還と、皇帝の許可のない同盟の禁止などを定めたものでしたが、これが大失敗でした。なぜならプロテスタントはおろか、皇帝権力の拡大を恐れるカトリック諸侯までこれに反発したからです。 カトリック諸侯は皇帝が傭兵上がりのヴァレンシュタインを重用し、その権威を背景に彼の傭兵軍が帝国中を荒らし回っている事を非難し、ヴァレンシュタインを罷免しなければ皇帝に協力しないと迫りました。

さすがにこれには皇帝も手も足も出ず、やむなくヴァレンシュタインを皇帝軍総司令から解任します。一方皇帝とカトリック側が低レベルな内輪もめをしている間、プロテスタント側は今度はスウェーデン王グスタフ・アドルフ2世を総大将とする新たな戦力で再び反撃に転じました。

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上が当時のスウェーデン王グスタフ・アドルフ2世です。(1594~1632)彼はスウェーデン第1王朝であるヴァーサ朝第6代国王で、バルト海の支配権をめぐってロシア、ポーランド、デンマークなどの列強を、大砲を集中使用した砲撃戦で次々に打ち破り、スウェーデン王国の最盛期を築いて「北方の獅子王」と恐れられた強大な王でした。

グスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍は1631年、まずライプチヒの北でヴァレンシュタイン解任後の総司令ティリー伯率いる皇帝軍と最初の大会戦にのぞみます。「ブライテンフェルトの戦い」 の始まりです。戦力はスウェーデン軍2万3千とザクセン軍1万7千の合計4万に対し、皇帝軍3万3千でした。この戦いでグスタフ・アドルフは100門もの大砲で集中砲撃を浴びせ、その3分の1しか大砲が無かった皇帝軍を撃破して大勝利します。

これはそれまで敗戦続きだったプロテスタント勢力にとって初めての勝利でした。これに勢いづいた彼らは勇んでグスタフ王の下に馳せ参じ、彼の軍勢は総勢10万の大軍に膨れ上がります。続いて1632年にはバイエルンにまで南下し、「レヒ川の戦い」で迎え撃つ皇帝軍をまたも撃破します。(この戦闘で皇帝軍総司令のティリー伯は負傷し、それがもとで戦死します。)

2度の大敗と信頼していた有能な指揮官ティリー伯の戦死に、皇帝フェルディナント2世は大いにうろたえました。 バイエルンはハプスブルク家の本拠地オーストリアのすぐ隣です。いつ都ウィーンにスウェーデン軍が迫るかわかりません。

「このままではわが方は負ける、何とかしなければ。」

皇帝は最後の切り札として、一度解任したヴァレンシュタインを再度皇帝軍総司令に任命します。ヴァレンシュタインにとっては名誉挽回と復権のチャンスです。 彼は皇帝に総司令官になる条件として、「軍の全権、和平交渉権、条約締結権の全面委任とハプスブルク帝国領と選帝侯領の割譲」というあまりにも過大な要求をしました。本来ならこんな要求など通るはずもないのですが、切羽詰っていた皇帝はそれらを全て呑んでまで彼の助力を得ようとします。こうしてヴァレンシュタインは総司令官職を引き受け、皇帝の了解を得て2万6千の軍勢を率いてグスタフ・アドルフとの戦いに出撃しました。


両軍は再びライプチヒの南西、リュッツェンで激突します。戦力は両軍ともおよそ2万づつでほぼ互角でしたが、大砲の数はスウェーデン軍が60門に対し、皇帝軍は20門余りしかありませんでした。つまり普通に考えればグスタフ王が圧倒的に優勢だったのです。しかしここで思わぬ大誤算が生じます。 両軍が大砲を撃ちまくったためにその砲煙で戦場は大変視界が悪く、さらにこの状況下で好戦的なグスタフ・アドルフ自身が、わずかな護衛とともに前線に突出しすぎたために皇帝軍に包囲され、乱戦の最中に戦死してしまったからです。

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上が「リュッツェンの戦い」でのグスタフ・アドルフ戦死のシーンを描いた絵です。彼の戦死によって指揮系統を失ったスウェーデン軍は大損害を被りましたが善戦し、結局この戦いでヴァレンシュタイン率いる皇帝軍は敗退します。しかしこの時彼は勝ったも同然でした。なぜなら総大将であったグスタフ・アドルフの死はプロテスタント軍にとって大打撃となり、これにより再びカトリック軍が勢力を盛り返したからです。 この戦い以後プロテスタント側はカトリック側に大きく戦線を押し戻され、戦局は再び長い膠着状態に陥りました。

「北方の獅子」グスタフ・アドルフを戦死させ、皇帝とカトリックの窮地を救ったヴァレンシュタインの名声はこれでいよいよ高まるかに見えました。 しかしその後の彼には思いもかけない運命が待ち受けていました。

次回に続きます。
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