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山下将軍の財宝の謎 3

みなさんこんにちは。

前回、山下将軍の最後とマル福金貨についてお話しました。そしてそれの目的が、米軍との決戦に備え、物資調達の資金として準備された事について触れました。しかし日本軍が占領していた東南アジア各地から集めたと思われる莫大な金塊については、いまだ詳細が分かっていません。今日はそれについて考えてみたいと思います。

この話については第1回目で、米国人作家が書いた「黄金の百合(ゆり)」という架空の物語をご紹介しましたが、その内容の全てが創作ではなく、事実を基にして書かれたという説があるのです。

小説では、昭和天皇の次弟であられた秩父宮殿下(1902~1953)の命によって金塊の輸送と埋蔵が画策された事になっている様ですが、実は別の人物がそれらを命じた可能性が指摘されています。

1938_terauchi_hisaichi.jpg

その人物とは、上に載せた南方軍総司令官伯爵寺内寿一元帥(1879~1946)です。(写真右側の人物です。左側の小柄な将軍は支那派遣軍総司令官の畑俊六元帥。)

彼は長州出身の元首相寺内正毅伯爵の長男で、親子2代で元帥号を授与された帝国陸軍に君臨するサラブレッドです。(下の名前は「ひさいち」と読みます。)
そして太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941年)11月、資源獲得と東南アジア征服のため編成された4軍11個師団(兵力およそ22万、但しこれらは開戦時の数字で、その後の戦局の展開により大きく増加します。)からなる南方軍の総司令官に任命され、終戦までその職にありました。


開戦後、東南アジアを支配下に置いた彼は、その司令部をベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に置きます。(戦局の都合によりシンガポールなどに移動しますが、ほとんどサイゴンに置かれていた様です。)そして全域で日本軍による軍政を敷きます。

JapaneseMarchSgpCity.jpg

上の画像はシンガポール市内を意気揚々と行進する日本軍です。この当時のわが軍は無敵の勢いで戦線を拡大し、海軍の方では陸軍3個師団によるオーストラリア侵攻作戦まで計画するほどでした。(その計画は陸軍の大反対に遭って幻に終わります。なぜなら当時の陸軍の試算では、オーストラリア占領には最低でも12個師団、およそ25~30万の兵力と、それらを輸送する1万トン級の大型船150隻以上が必要で、満州と中国大陸に40個師団、合計130万もの兵力を釘付けにされ、本土やその他の地域から兵力を転用してかき集めても、やっと東南アジアを占領するのが精一杯だった陸軍にそんな余剰兵力は無かったからです。)

寺内元帥指揮下の日本軍は画像の様に南方各地に駐留し、その先々で現地の資産家や華僑の経営する銀行や金融機関を接収、金庫などに収蔵されていた莫大な金塊などを「献納」と称して押収して行った様です。

時は流れて昭和19年(1944年)戦局は悪化し、総反撃に転じた米軍はフィリピンにせまりました。実はこの時に山下将軍の用意した金貨とは別に、寺内元帥が米軍との決戦に備え、南方各地で集めた金塊を軍用金としてフィリピンに送った可能性があるのです。

まだ戦局が優勢な内に、日本本土に送れば良かったのにと思われるかも知れませんが、彼の指揮する南方軍の管轄地域は東南アジア全域に渡る広大なものであり、さらに敵は東からせまる米軍だけでなく、西にはインドの英軍、南はオーストラリア軍にも備えなければならず、それらの戦費として手元に保管する必要があったのかも知れません

map_minami1944lh.gif

しかしフィリピンを失えば、日本本土と南方占領地は完全に遮断され、重要資源を本土に送れなくなって日本の敗戦は決定的となります。もはや他方面は二の次です。そこで寺内元帥は東京の大本営と図り、各地から部隊を転用してフィリピンに増援軍として送りました。

結果は山下部隊と同じで、米軍との戦闘に敗れ、敗走していくわが軍将兵たちによってフィリピン各地の山中に分散して隠されたと思われます。補給が無く飢えに苦しむ前線の兵士たちにとって、食べられもしない黄金など何の価値もありませんでした。


そして終戦。
当事者の寺内元帥は降伏からわずか10ヶ月後の昭和21年(1946年)6月、拘留先のマレーの収容所であっけなく病死し、金塊を輸送していた兵たちも全滅。その真相の追究は永遠に不可能となりました。そして戦後、知名度の高かった山下将軍の金貨と同じものとされ、その名を取って「山下将軍の財宝」として今日まで語り継がれています。


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上はシンガポールで英軍に軍刀を渡して降伏する第7方面軍(シンガポール方面軍)司令官板垣征四郎大将です。本来は南方総軍総司令官の寺内元帥がこの場に立つべきでしたが、この時彼は脳溢血で倒れて療養中で、次席の板垣将軍が降伏文書に調印しています。(その後彼はビルマ方面軍司令官であった木村兵太郎大将とともに東京に護送され、英国の名監督デビッド・リーンの名作「戦場にかける橋」で悪名高い泰緬鉄道の建設その他、大戦中の連合軍捕虜への虐待などの復讐に燃える連合国によってA級戦犯とされ、満州事変以来の日本軍の侵略の権化として絞首刑になったのは良く知られていますね。)

と、以上述べた寺内元帥の方の話は可能性があるという事です。実際はご本人も亡くなるまで黙して何も語らず、それを命じた記録もありません。しかし完全な否定も出来ないのです。なぜなら日本軍降伏後、それらの金塊は全く見つかっていないからです。


もう一つお話をしておきましょう。
戦後現在に至るまで、この山下財宝を信じて多くの日本人がフィリピンに渡っています。しかし、現地のフィリピンではこれを悪用した詐欺が横行しており、大金を騙し取られたり、殺されたりする者が後を絶ちません。

その手口はこうです。財宝を探す人に接触し、贋物の金塊をいくつか見せて信用させ、掘り出すのに金がかかるからこれこれの金額を現金で払ってくれと持ちかけ、支払った所で口封じに射殺するというものです。(こんな幼稚な手口に引っかかるのかと思われるでしょうが、世間に横行する詐欺を見れば分かる様に、人の欲は恐ろしいもので、まともな思考や判断力を失わせてしまうのです。)

彼らは高度に組織化されており、摘発はモグラたたきの様になっています。そのためフィリピン当局では、それまで届出制であった山下財宝の採掘を許可制にしたそうです。(時折テレビやネットなどで、日本人がフィリピンで射殺された云々というニュースが流れますが、どうもこれによって殺害されている人が多いそうです。)

もしみなさんの中で、「一攫千金の夢を抱いてフィリピンへ行くぞ!」などと考えている夢見る少年の様な方がおられましたら (いないでしょうが。笑) あくまで夢を見るだけになさっておく事です。現地で「悪夢」になるかも知れませんからね。

01082.jpg

様々なエピソードにあふれた「山下将軍の財宝」についていかがだったでしょうか?上の画像は全く関係ない金塊ですが、目の保養にと思ってお載せしました。今もフィリピンのどこかにこの様なまばゆい黄金が人知れず眠っているのかも知れませんね。

終わり。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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