ウェストファリア条約 ・ 帝国の死亡宣告書

みなさんこんにちは。

三十年戦争開戦の責任者である先の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が1637年に崩御した後、帝位を継いだのは29歳で同名のフェルディナント3世でした。 しかし彼にはそれを喜んでいる暇はまったくありませんでした。 なぜなら彼が父から受け継いだ帝国は、すでに20年続く殺戮と破壊のために荒廃し、人間世界のあらゆる悲惨の巣窟と化していたからです。

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上が新皇帝フェルディナント3世です。 (1608~1657)

さらに彼が帝位に就く2年前の1635年から、フランスがドイツの戦乱に本格的に介入し、前回お話した謀略家として名高い宰相リシュリューによって引き立てられた名将テュレンヌ将軍率いる精鋭部隊が帝国領に侵攻、皇帝軍は今だドイツ北部に居座るスウェーデン軍と、テュレンヌのフランス軍との二正面作戦を余儀なくされ、せっかく亡きヴァレンシュタインが押し戻した戦線は再び崩れ、皇帝軍は次第に押されて後退していきます。

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上がフランスのドイツ派遣軍司令官アンリ・テュレンヌ子爵です。(1611~1675)彼は宰相リシュリューから皇帝軍の撃滅と同時に、すでにフランスと険悪になっていたスウェーデン軍への威嚇と牽制の2つの命令を受けており、その難しい務めを見事に果たして賞賛され、後に軍人として最高の位である元帥号を授かります。

この様な状況下で、皇帝フェルディナント3世とカトリック軍は敗退を重ね、さらに彼らに追い討ちをかける出来事が起こります。1640年、オーストリア・ハプスブルク家にとって南の強力な味方であるスペインが、かつて60年に亘って併合していたポルトガルが起こした独立戦争に敗れ、これの独立と王政復古を許したのです。 その数年前からスペインはすでにネーデルラントの支配権も失い、同地にプロテスタントのオランダという新国家が誕生していました。

戦局は完全に皇帝とカトリック側に不利となっていました。すでに開戦から20年以上が経過し、戦争の主導権はスウェーデンとフランスに握られ、皇帝自身はもちろん多くの帝国諸侯、家臣や兵たち、そして最も犠牲となっていた無辜の領民たちなど、帝国の全ての階級で深刻な厭戦気分が広がっており、すでに逼迫していた皇帝は和平の道を真剣に考え始め、1644年に和平会議が開かれました。

この頃、一方の主役であるフランスでは政権交代が起きていました。長くフランスを動かしていた影の指導者である宰相リシュリューが1642年に亡くなり、その翌年には彼が仕えた国王ルイ13世も亡くなったのです。後にはわずか4歳のルイ14世が新国王に即位しますが、当然政治が出来るはずはなく、フランスの実権はリシュリューの腹心の部下であったジュール・マザラン枢機卿によって継承されていきます。

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上がリシュリューの後継者であるフランス新宰相ジュール・マザラン枢機卿です。(1602~1661)彼の下でフランスは中央集権の絶対王政が確立され、彼の死後親政を開始したルイ14世が、その体現者であるのは有名ですね。

さて、和平会議の設置と和平交渉を始めた皇帝フェルディナント3世でしたが、彼も心の内ではこのまま帝国をフランスとスウェーデンの好きにさせたくないという意地と面子がありました。 そのため彼は交渉を少しでも有利に運ぶため、残る戦力を総動員してフランスとスウェーデンに一矢報いようとまたも余計な先端を開いてしまいます。

しかし皇帝の最後の望みをかけた作戦は完全な失敗に終わります。皇帝軍は1645年にプラハ近郊のヤンカウの戦いでスウェーデン軍に敗れ、さらにその後のフランスとスウェーデンの内輪揉めで勢力を盛り返し、再び挑んだ1648年のアウクスブルク近郊での戦いでも両軍に敗れてしまいました。 事ここに至って皇帝は和平条約に署名することに同意し、三十年戦争の実質的な勝敗は皇帝とカトリックの敗北という形で終わりを迎える事になりました。

1648年11月、現在のドイツ、ヴェストファーレンにおいて、今次戦争に参加した関係各国の全てが集まり、戦争の終結とその後の各国の権利などを定めた 「ウェストファリア条約」 が締結されました。(ドイツ語読みでは「ヴェストファーレン条約」ですが、歴史では古くから英語読みの「ウェストファリア条約」で呼ばれているので、こちらの方で呼ばせていただきます。)

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上が条約締結の様子と居並ぶ帝国諸侯と各国代表団の様子です。

この条約は非常に膨大なものなのですが、代表的なものを挙げると下の様になります。

1、神聖ローマ帝国はフランスにアルザス、ロレーヌ地方を割譲する。(両地方の帝国からの離脱)

1、神聖ローマ帝国はスウェーデンに500万帝国ターレル(現在の日本円で1千億円以上)の賠償金を支払う他、ドイツ北部ポンメルンとその周辺都市を割譲し、スウェーデンはこれらを領する帝国諸侯の一員として帝国議会に参加する。

1、神聖ローマ帝国はスイスとオランダ (独立当時はネーデルラント連邦共和国) の独立を承認する。(両国の帝国からの離脱)

1、カトリックとプロテスタントは同権とする。

1、神聖ローマ帝国内の全ての諸侯はそれぞれ主権と外交権を持つ。

1、神聖ローマ皇帝は、法律の制定、戦争、講和、同盟などについて帝国議会の承認を得なければならない。


などです。

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上が1648年のウエストファリア条約によって確定された帝国の姿です。ハプスブルク家は薄緑色で表されたオーストリアとハンガリーを中心として、帝国の3分の1を支配する最大の領土を保全してはいるものの、以後それ以外の帝国諸侯への介入は出来なくなります。(結局何のための長い苦しい戦争だったのか。 疲れ果てた皇帝の顔が目に浮かぶ様です。)

このウェストファリア条約は、近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき画期的な条約で、史上初の多国間条約とも言えます。 これによりヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終結し、条約締結国は相互の領土を尊重して内政への干渉を控える事を約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至りました。

しかし、ここに至るまでに流された兵士と人民のおびただしい血は、それまでの戦争の比ではありませんでした。 この三十年戦争における参加兵力はカトリック側が総勢約45万、プロテスタント側は約65万に達し、一般民衆の死者は各国合計でおよそ800万人に登りました。(ちなみに開戦前のドイツの人口はおよそ1700万人ほどで、そのうち500万人以上が犠牲になったそうです。)

この戦争の結果、神聖ローマ皇帝を世襲してきたハプスブルク家の帝国内の権力は著しく弱められ、全く形式的かつ儀礼的なものに過ぎなくなり、その支配権はオーストリア、ハンガリー、ボヘミアなど中央ヨーロッパ内陸部に押し込められる事になりました。 またそれまで海洋帝国として栄華を誇っていたスペインも、イギリス、フランス、オランダに次々と敗れ、正に「盛者必衰」の言葉通り没落の道を歩み始めます。 そしてそれらに代わってヨーロッパには、絶対王政の確立に成功したフランスのブルボン王朝が豪奢な宮廷文化の花を開かせ、太陽王ルイ14世の君臨する時代が到来するのです。

次回に続きます。
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