第2次ウィーン包囲戦 ・ オスマン帝国との戦い

みなさんこんにちは。

カトリックとプロテスタントの宗教対立から三十年に亘って続いた文字通りの三十年戦争は、1648年のウェストファリア条約の締結でようやく終結しましたが、この戦争は主戦場となったドイツをはじめ、関係各国に甚大な被害をもたらしました。 特に傭兵軍の略奪で食糧を奪われ、飢餓と虐殺によって放置された無数の遺骸から発生したペストの大流行により、一番の被害者であった農民の人口の激減が著しく、戦乱が終わったとはいえ、各国の戦後復興には相当な年月と容易ならざる努力が必要でした。

このドイツ三十年戦争はさらに、神聖ローマ帝国の国家としての機能を停止させ、事実上この時に帝国はほぼ瓦解したも同然の結果を招きました。 300に及ぶ帝国諸侯や帝国自由都市、教会領はウェストファリア条約によってそれぞれの領土主権と外交権を認められた独立国となり、帝国は実体のない名ばかりの存在でしかなくなってしまいました。

一方名ばかりに成り下がったとはいえ、一応この神聖ローマ帝国の皇帝家であったハプスブルク家でしたが、当家も他の帝国諸侯と同様に「人、物、金」 の全てにおいて疲弊し、興隆著しい西の大国フランス・ブルボン王朝に、ヨーロッパの覇権を大きく掠め取られてしまいます。 しかし、そんな中でも彼らは本拠地オーストリアをはじめ、ボヘミア、ハンガリーなどの直轄領の死守と維持には成功し、この地域におけるカトリックは厳として守り通されました。

この時期ハプスブルク家では、戦争終結時点の皇帝フェルディナント3世が1657年に崩御し、長男で同名の4世が先に亡くなっていたため、帝位は次男のレオポルト1世が継承しました。

Guido_Cagnacci_005.jpg

上が新皇帝レオポルト1世です。(1640~1705)三十年戦争の終盤に生まれた彼は次男であったため、本来帝位に就くはずはなく、父帝から枢機卿など聖職者の道に進むべく教育されていましたが、兄の早世により一転帝位継承者となります。

しかし彼もすぐに皇帝に即位出来たわけではありませんでした。すでに形骸に過ぎなかったとはいえ、帝位継承には7人の選定候の過半数の承認が必要であり、これらへの選挙資金(というより買収資金)がかさんだ上に、当時のフランス宰相マザランの差し金によりライン川流域の諸侯が結成した「ライン同盟」によって、この地域へのフランスの再侵攻が懸念される苦しい状況下に置かれていました。(このライン同盟は、その後黒幕のマザランの死と、1667年の内紛により自滅したためこの懸念は杞憂に終わりました。)

1658年にやっと帝位に就いたレオポルト1世ですが、その彼の元に早速東から新たな脅威が迫りつつありました。イスラムの覇者オスマン帝国がヨーロッパへの領土拡大のためにハプスブルク家の領土であるハンガリーに再び大攻勢を仕掛けてきたのです。

ImperioOtomano1683.png

上が当時のオスマン帝国最大領域図です。先に何度か当ブログでもお話しましたが、このオスマン帝国は1453年のコンスタンティノープル陥落以来、周辺諸国に侵略の手を伸ばし続け、その領土は上の様にアジア、アフリカ、ヨーロッパ3大陸にまたがる広大なものになっていました。

しかし最大最強を誇ったこのオスマン・トルコも、最盛期の第10代スルタンであるスレイマン1世の時代を過ぎ、絶えず続く後継者争いと、オスマン家伝統のスルタンに就いた者による他の兄弟の根絶やしによって、彼の後のスルタンには政治、軍事ともにあまり才のない人物が続き、この時期すでに衰退の兆しが見えてきていました。

387px-Mehmed_IV_by_John_Young.jpg

上が当時のオスマン帝国第19代スルタン、メフメト4世です。(1642~1693)彼は狩猟などの趣味に熱中するばかりで国政に関心を示さず、オスマン帝国の実権は大宰相と呼ばれる大臣たちが握っていました。

この様な状況はオスマン帝国内部でもその危機感を心配する者が多く、時の大宰相カラ・ムスタファ・パシャはこの状況の打開と払拭のため思い切った手を打ちます。それはかつて名君スレイマン大帝が成し得なかったハプスブルク家の帝都ウィーンを攻略し、ヨーロッパに再侵攻するというものです。

390px-Kara_Mustafa_Pasha.jpg

上が当時のオスマン帝国大宰相カラ・ムスタファ・パシャです。(1635~1683)自らも軍人出身であり、若い時から多くの戦いに従軍した彼がウィーン攻略を計画したのは「領土拡大」こそオスマン帝国発展の原動力であるとの堅い信念によるものでした。

1683年7月、大宰相ムスタファ・パシャは自ら15万の大軍を率いてバルカン半島を北上、瞬くうちにハンガリーを制圧してウィーンに迫ります。 この時敵の大軍に驚いた皇帝レオポルト1世は、対オスマン戦の名将であり、彼らとの戦いを知り尽くした信頼するシュターレンベルク将軍をウィーン防衛司令官に任命すると早々にウィーンを脱出し、パッサウに避難してしまいました。

ERNST_~1

上がウィーン防衛軍司令官リュディガー・シュターレンベルク将軍です。(1638~1701)彼は皇帝から預かったハプスブルク守備隊とウィーン市民の義勇軍からなる1万5千の兵力でウィーンに籠城し、3ヶ月に及ぶ籠城戦を戦い抜きます。(オスマン軍に比べ、ウィーン防衛軍は10分の1に過ぎませんが、当時のウィーンは街全体を堅固な城壁で囲んだ城塞都市であり、その面積を考えると立て籠る兵力はこれが限度でした。)

オスマン軍は圧倒的な大軍でウィーンを完全に包囲し、街の西部から城壁の突破を図って攻撃を仕掛けました。 しかし最新の築城法で要塞化されて第1次包囲の時代よりはるかに堅固になったウィーン市の防備を破る事ができず、攻城戦は長期化します。 遠方から進軍してきたため強力な攻城砲を搬入できなかったオスマン軍は、地下から坑道を掘って城壁を爆破する作戦も撮りましたが失敗に終わりました。一方防衛側のウィーン守備軍は士気が盛んで、たびたび要塞から打って出てオスマン軍を攻撃しましたが、その割には包囲軍に対してほとんど損害を与える事は出来ませんでした。

一方ウィーンを脱出してパッサウに逃れていた皇帝レオポルト1世はその頃何をしていたのでしょうか? 実は彼は何も命が惜しくて家臣や市民を置きざりに自分たちだけ逃げたのではありません。彼は今のハプスブルク家の力では独力でオスマン軍には対抗出来ない事を一番良く分かっていました。そのため他の帝国諸侯や各国に救援の兵の派遣要請と、支援を得るための外交戦を展開していたのです。

ハンガリー辺境におけるこれまでの小競り合いとは明らかに違う、今回のオスマン軍の大攻勢にさすがに危機感を募らせた諸侯と各国は、皇帝レオポルトの訴えもあって直ちに軍勢を集結、戦上手のポーランド王ヤン3世率いるキリスト教連合軍7万がウィーン救援に駆けつけ、ウィーンを包囲していたオスマン軍に襲い掛かりました。

Battle_of_Vienna_1683_11.png

上がウィーン攻防戦の様子です。この時すでに2ヶ月続いた包囲でオスマン軍は疲れきっており、兵の士気は弱く、ヤン3世はこの期を逃さずオスマン軍の最も防備の手薄な部分を急襲して敵陣を切り崩し、なんと1時間ほどで大勢が決してしまったそうです。 総司令官ムスタファ・パシャ以下、オスマン軍は散り散りになって総撤退を余儀なくされ、 戦いはキリスト教連合軍の逆転大勝利に終わりました。

この第2次ウィーン攻略の失敗とオスマン軍惨敗の知らせはスルタン、メフメト4世の元にも届き、ムスタファ・パシャが強引に進めたこの作戦に不満を持っていた彼の政敵たちの策謀によって、メフメト4世は大宰相ムスタファ・パシャの処刑を命じます。ベオグラードで反撃の態勢を整えていたムスタファは捕らえられ、即日処刑されてしまいました。

この第2次ウェーン包囲戦は、その後バルカン半島における16年に及ぶ「大トルコ戦争」の幕開けとなるのですが、この戦いの敗北によってそれまで無敵を誇って来たオスマン帝国の衰退が明らかとなり、それまで200年以上ヨーロッパ諸国を脅かしていたオスマン帝国の脅威は大きく後退していきました。そしてこの危機を乗り越え、勝利したオーストリア・ハプスブルク家は徐々にバルカン半島への南下を進めて行く事になります。

次回に続きます。
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR