大トルコ戦争 ・ 名将プリンツ・オイゲンの活躍

みなさんこんにちは。

1683年の第2次ウィーン包囲戦で、150年ぶりに15万 (各方面に展開した兵力も含めると20万以上) という前代未聞の大兵力で大攻勢を仕掛けてきたオスマン帝国の大軍を幸運にも撃退し、(といってもほとんど総大将であるポーランド王ヤン3世とドイツ諸侯の手柄ですが。) 帝都ウィーンをイスラム教徒から死守したオーストリア・ハプスブルク家でしたが、その後の状況はどうなったのでしょうか?

この第2次ウィーン包囲戦の時のハプスブルク家当主にして、神聖ローマ帝国皇帝はレオポルト1世という人物でしたが、彼は前回お話した様にオーストリア一国だけではオスマン帝国の大軍に対抗出来ないため、各国に援軍と救援要請の外交戦を展開し、これが実ってウィーンを包囲する敵を撃退する事に成功しました。

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上が当時の神聖ローマ皇帝レオポルト1世です。 (1640~1705)

しかしこの時の彼の高度な政治判断というか大局的な戦略が、 「帝国皇帝たるものが帝都と臣民を置き去りに自分たちだけ逃げ出した。」 などと批判され、歴史家の間では彼を 「騎士道精神に反する優柔不断な臆病者」 と酷評する人もいる様です。 しかしもともと次男であった彼は兄の早世で急遽皇帝になったのであり、帝位に就くためのいわゆる 「帝王学」 の教育を受けておらず、また大司教や枢機卿などの高位聖職者になる教育を受けていたために軍事的知識もほとんどありませんでした。 (本来神に仕える身である聖職者と、軍人や戦争は全く対極にありますからね。)


しかしこの帝国史上空前の異教徒の攻撃をなんとか撃破出来たのは、ひとえに彼の外交戦略の勝利であり、その後も続くオスマン帝国やフランスとの戦いでも、ウィークポイントの軍事面で優秀な軍人や将軍を登用してこれらとの戦いに当たらせ、彼の在位中オーストリア・ハプスブルク家は三十年戦争の敗北と低迷から抜け出し、再び大国への道を歩みだす事になります。 また帝王学教育を受けていないにも関わらず、彼なりに良き皇帝になるべく努力し、200年前の先祖である皇帝フリードリッヒ3世と並ぶ53年間もの帝位を維持したのは十分評価出来るのではないかと思います。

余談ですが、このレオポルト1世は政治、軍事には向いていませんでしたが文化人としては大変優れており、特に音楽の分野では自ら作曲するほどの才能の持ち主で多くの音楽家のパトロンとなり、彼らを保護育成しました。 後にウィーンがモーツァルトなどの活躍する音楽の都として発展するのはこの時の彼の功績によるものです。

その音楽皇帝レオポルト1世が、自分の専門外の軍事分野で引き立てた優秀な軍人で最も有名な人物が、プリンツ・オイゲンの名で知られるオイゲン・フォン・サヴォイエン将軍です。

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上が名将として名高いプリンツ・オイゲンです。 (1663~1736) 彼は本名をウジェーヌ・ド・サヴォワというフランス貴族で、オイゲンとはウジェーヌのドイツ語読みであり、北イタリア一帯を支配していたサヴォワ公国の領主サヴォワ家の分家ソワソン伯爵家の公子 (プリンツ) でした。

長男でなかったために伯爵家を継ぐ事は出来ず、軍人の道を進んだ彼は最初は故国フランスのルイ14世に仕えようと19歳の時に王に仕官します。 しかし派手好きで有名なルイ14世には、オイゲンが地味で風采の上がらない田舎者にしか見えず、素っ気なく不採用になってしまいます。

後の歴史はこの時のルイ14世の判断が完全な誤りであった事を証明しています。 もし彼がこの時に、若きオイゲンをフランス軍の一員に加えていたら、ルイ14世のフランスは西ヨーロッパの大部分を支配下に置いて、その後の歴史は大きく変わっていたかも知れません。

さて若きオイゲンの 「就職活動」 は続きます。 ルイ14世に気に入られなかった彼は、やむなくフランス・ブルボン王朝の宿敵であるオーストリア・ハプスブルク家の門を叩きます。 ハプスブルク家の当主、皇帝レオポルト1世はこの若者の軍人としての素質を見抜き、彼をオーストリア軍将校として自軍に入隊させました。

ハプスブルク家の下でようやく自分の居場所を得たオイゲンは、その後軍人として水を得た魚の様に次々に手柄を立て、トントン拍子に昇進していきます。 折しも当時オーストリアはオスマン帝国との激しい戦いの最中であり、彼は第2次ウィーン包囲戦を初陣に、ハンガリー戦線でオスマン軍を何度も撃破して武勲を立て、それに驚いた彼の上官で、ウィーン包囲戦の英雄であるシュターレンベルク将軍は、老いた自分に代わって彼を対トルコ作戦の総指揮官に推薦し、皇帝もこれを了承しました。

オイゲンは自分を引き立ててくれた皇帝レオポルト1世とハプスブルク家のために、それまで以上にオーストリアに忠誠を尽くす様になっていきます。 それが最も良く表されたのが1697年の 「ゼンタの戦い」 です。

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上が 「ゼンタの戦い」 を描いた絵です。 この戦いはオスマン帝国の攻撃を撃退して反撃に転じたオーストリア・ハプスブルク家が、今度はオスマン軍を追撃してハンガリーを奪い返し、逆にオスマン帝国領であるセルビアにまで進行して、それを阻止するべく出陣した当時のオスマン帝国スルタン、ムスタファ2世自ら率いるオスマン軍と、対トルコ方面の総司令官となったプリンツ・オイゲンのオーストリア軍が、同地のゼンタ近郊を流れるドナウ川の支流ティサ川付近で戦った会戦です。

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上が当時のオスマン帝国第22代スルタン、ムスタファ2世です。 (1664~1703) 絵で見ると失礼ながらずんぐりむっくりして愛嬌のある人物ですね。 (笑)

この戦いにおける両軍の戦力は、プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍5万に対し、ムスタファ2世率いるオスマン軍は8万で、兵力はオスマン軍が優勢でした。 オスマン軍は上の絵の様にティサ川を背後に半円状に陣地を構築しており、これを好機と見たオイゲンは全軍を同じく半円状に展開させて総攻撃し、オスマン軍をティサ川に追い込んで大勝利を得ました。 この時のオスマン軍の戦死者 (というより溺死者) はなんと3万に達し、オーストリア軍の戦死者はたった500人ほどだったそうです。

この戦いから2年後の1699年、ハンガリー南部カルロヴィッツで、オーストリアはじめヨーロッパ各国とオスマン帝国との間で和平条約が結ばれ、これにより1683年の第2次ウィーン包囲に始まる足かけ16年に亘る大トルコ戦争は終結しました。 オスマン帝国が夢見た一連のヨーロッパ侵攻作戦は完全な失敗に終わり、それどころかオスマン帝国は、その建国以来初めてハンガリー、トランシルヴァニアなどの領土をオーストリアに割譲する事になってしまいました。

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上が和平条約の結ばれたカルロヴィッツの現在の姿です。 (人口約9千人ほど) 温泉保養地として有名な静かな田舎町です。

この戦争でオーストリアを勝利に導き、さらに新たに広大な領土をもたらした最大の功労者プリンツ・オイゲンは、その後も皇帝とオーストリア・ハプスブルク家に忠誠を誓う将軍として、イタリア、スペインなどヨーロッパ各地を転戦します。 しかし皮肉な事に、元はフランス人である彼の前に敵として立ち塞がったのは、多くの場合そのフランスでした。 彼はその後の人生をかつての同胞たちとの果てしない戦いに費やしていく事になります。

次回に続きます。
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