スペイン継承戦争 ・ ハプスブルク家対ブルボン家

みなさんこんにちは。

名将プリンツ・オイゲンの活躍でオスマン・トルコを撃ち破り、1699年のカルロヴィッツ条約でトルコからハンガリーの奪還に成功、それどころかトルコ領であったトランシルヴァニア(現ルーマニア)やクロアチア東部などを手に入れ、東へと大きくその領土を広げたオーストリア・ハプスブルク家は、三十年戦争の敗北で疲弊していた国運が再び隆盛しつつありました。

しかしその反面もう一つのハプスブルク家であるスペイン・ハプスブルク家の命運は、その同じ頃に風前の灯といった状態でした。 その原因は先のドイツ三十年戦争で、カトリックの代表としてオーストリアとともに戦ったスペインが、一連の戦闘でイギリス、フランス、オランダに敗れ続け、大海洋国家としての地位をこれらの新興国に取って代わられ、かつて「日の沈まない帝国」と称して世界に誇った国家の座から転落し、急速に没落の道を歩みだしていたからです。

さらに王家の存続でも、スペイン・ハプスブルク家は危機的状態にありました。それというのも当時のスペイン国王はカルロス2世という人物でしたが、彼は生来病弱であったため、家系の断絶が誰の目にも明らかであったからです。

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上が当時のスペイン王カルロス2世です。(1661~1700)彼はわずか4歳で即位しましたが、先に述べた様に生来病弱で、成長してからも癲癇などいくつかの病気に悩まされ、フランス王ルイ14世の姪であるマリア・ルイーサと結婚はしたものの性的には不能に近く、子孫を残す事は出来ませんでした。さらに軽い知的障害もあった様で、そのため政治は王母のマリアナ王妃が摂政として取り仕切っていました。

彼の先天的な病弱は歴代ハプスブルク家が200年にわたって繰り返した「近親婚」が原因であった様です。 ハプスブルク家はヨーロッパ最高の名門王家であり、当然結婚相手は同格の王家が条件とされ、必然的に同族のオーストリア本家との近親婚が続きました。余談ですがこうした近親婚は、子孫が短命か遺伝的欠陥で生まれる確率が非常に高くなる事が歴史上立証されている様です。

その摂政マリアナ王妃が1696年に亡くなり、すでに妻マリア・ルイーサも若くして亡くしていたカルロス2世は心の支えを失い、その妻の遺骨を掘り起こして手元に置くなど、次第に奇行に走る事が多くなっていきます。そして1700年にこの哀れな王が35歳の若さでついに亡くなると、カール5世以来5代180年余り続いたスペイン・ハプスブルク家はついに断絶してしまいました。

同時に後継者の絶えたスペイン王位を巡り、各国が動き出します。先王カルロス2世は一応後継者としてルイ14世の孫で、自分の甥に当たるアンジュー公フィリップを指名しており、彼はフェリペ5世として即位しました。これはそのフェリペ5世の祖母が、カルロス2世の姉でルイ14世の王妃マリア・テレサであったからですが、実はルイ14世が周到に裏で糸を引いていました。

これに対し、フランスにスペインを取られてなるものかとオーストリア・ハプスブルク本家の皇帝レオポルト1世が異を唱え、オーストリアはイギリス、オランダと対フランス同盟を結成してこれに対抗し、1701年ここに「スペイン継承戦争」の幕が切って落とされます。

開戦から4年後の1705年、オスマン帝国との戦いに勝利し、オーストリアを建て直して50年以上の帝位を維持した皇帝レオポルト1世が崩御。帝位は長男ヨーゼフが27歳で継承し、戦争を続行します。

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上が新皇帝ヨーゼフ1世です。(1678~1711)彼は根っからのカトリックで、「わが一族は神に選ばれた神聖な一族」であり、それゆえに異教徒トルコとの戦いに勝利したのだという堅い信念を持った自負心の強い人物でした。 そして全てのキリスト教徒の守護者として、同じカトリックのスペインをハプスブルク家の下に維持して行く事に熱い闘志を燃やしていました。

彼は弟のカール大公をスペイン王位継承者として同国に送り込み、さらに父の代から仕え、優れた戦術で対オスマン戦を勝利に導いた帝国きっての名将プリンツ・オイゲンを対フランス作戦の総司令官に任命します。

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上が名将プリンツ・オイゲンです。彼は前回もお話した様に先帝レオポルト1世の下で、ヨーロッパに侵攻してきたオスマン帝国の大軍を何度も撃破してオーストリアを勝利に導き、トルコから新たに広大な領土を奪って東へと帝国を広げた将軍でした。

オイゲン公はすでに先帝レオポルト1世の最晩年に、およそ3万の大軍で北イタリアに侵攻し、フランス軍を次々に破って連戦連勝を重ねており、オランダ方面では同盟国イギリスの名将マールバラ公ジョン・チャーチルが北からフランス軍を叩いてフランスを挟み撃ちにしていました。

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上がイギリスの名将マールバラ公ジョン・チャーチルです。(1650~1722)この名を聞いて歴史好きの方はお分かりと思いますが、彼は第二次大戦時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルの先祖であり、また事故死したレディ・ダイアナ・スペンサーも彼の血を引く子孫です。

ジョン・チャーチルとオイゲン公はライン川で合流し、1704年に「ブレンハイムの戦い」で彼らの連合軍5万2千が6万のフランス軍に大勝利を収め、戦いはオーストリアに有利に進んでいました。

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上はブレンハイムの戦いの勝利の後、前線の将兵をねぎらうマールバラ公ジョン・チャーチルです。この戦いでフランスは2万の戦死者を出し、対するオーストリア・イギリス連合軍は4500余りに過ぎませんでした。

しかしフランスもさるもので、戦術を変えて頑強に抵抗します。フランス軍は戦っても勝てないこの2人の名将との直接の戦闘を避け、彼らが不在のイタリア戦線で反攻を開始、戦局は膠着状態に陥りました。そして数年を経るうちに情勢が大きく変動します。

まず1711年に皇帝ヨーゼフ1世が33歳の若さで崩御してしまいます。彼には後継男子がいなかったため、やむなくスペイン王になるために兄からスペインに送り込まれ、同国で戦っていた弟のカール大公が急遽カール6世として皇帝となります。(これにより、オーストリアはスペイン王位継承権を諦めざるを得なくなってしまいます。その理由は皇帝となったカールがスペイン王も兼ねれば、力を持ちすぎると同盟国イギリスとオランダが反対したためです。)

さらにプリンツ・オイゲンにとって共に戦った盟友のジョン・チャーチルが、軍資金横領の罪で総司令官を解任され、イギリスが戦争から離脱するなど状況がオーストリアに不利になって行きました。オイゲン公はカール6世が皇帝となった今、もはやスペイン王位継承をめぐる戦争の継続は不可能と判断し、同じ考えのフランス側と交渉を重ねた結果、1714年にフランス王ルイ14世と、皇帝カール6世との間で戦争終結のための妥協が成立し、ここに「ラシュタット条約」が結ばれて13年に及ぶスペイン継承戦争は終結しました。

この条約によってオーストリアはルイ14世の孫であるフェリペ5世をスペイン王として認め、スペイン王位継承権は放棄しますが、スペインが南北アメリカ大陸に持つ植民地を除くネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャなどのヨーロッパにおける旧スペイン領を手に入れる事に成功します。

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上はオイゲン公が全権代表として結んだラシュタット条約によってオーストリアが手に入れた新領土です。このプリンツ・オイゲンがいかにオーストリアに貢献し、多くの領土をオーストリアにもたらしたかお分かりいただけると思います。彼はこの後も軍人、政治家として活躍し、帝国最大の功労者としてその地位を不動のものとしていきます。そしてこの条約の結ばれた翌年の1715年、72年の在位を誇ったフランスの太陽王ルイ14世が亡くなり、歴史は新たな時代を迎える事になるのです。

次回に続きます。
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