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オーストリア・バロック ・ 海を夢見た皇帝カール6世

みなさんこんにちは。

スペイン・ハプスブルク家の断絶とそれに伴うスペイン継承戦争の結果、スペインとその広大な海外植民地を失ったオーストリア・ハプスブルク家でしたが、オーストリアの名将プリンツ・オイゲンの尽力で、スペインのヨーロッパにおける領土であったネーデルラントの南部(現ベルギー)ミラノ、ナポリ、サルデーニャを手に入れ、帝国の版図は大きく広がりました。

この時代の神聖ローマ皇帝にして、ハプスブルク家当主はカール6世という人で、前回お話した様に兄ヨーゼフ1世の急死により急遽皇帝になった人物でした。

Johann_Gottfried_Auerbach_002.jpg

上が時の神聖ローマ皇帝カール6世です。(1685~1740)彼はスペイン継承戦争の際、父レオポルト1世からスペイン王となるべく同国に送り込まれ、その死後帝位を継いだ兄ヨーゼフ1世とともにフランスと戦ったのですが、兄ヨーゼフ帝の急死 (天然痘によるものだそうです。) によりスペイン王位を断念し、1711年皇帝に即位しました。

カール6世はスペイン本国を失う代わりに新たに手に入れた領土の統治に専念します。そしてやっかいなハンガリーの反乱を鎮圧し、ミラノの隣国サヴォイア公国とはサルデーニャとシチリアの交換を申し出てこれを成功させました。(これは距離的にナポリから離れたサルデーニャよりも、間近のシチリアを領土としたかったからでしょう。この2カ国はギリシャ時代から切っても切れない間柄ですからね。)

しかしその矢先、東の方で不穏な動きをする大国がありました。かつてオーストリアに敗れて領土を大きく失ったイスラムの覇者オスマン帝国が、新スルタン、アフメト3世の下で再び外征の動きを見せていたからです。

Ahmed_III_by_John_Young.jpg

上がオスマン帝国第23代スルタン、アフメト3世です。(1673~1736)彼は父や兄の時代に大きくその勢力の後退を余儀なくされた帝国を建て直すため、ロシア、オーストリア、ヴェネツイアと熾烈な戦いを繰り広げます。しかしその反面で西欧文化を積極的に取り入れ、名君と呼ぶほどではないにしても、彼の在位中のオスマン帝国はとても景気が良く繁栄していました。

1716年、オーストリアとトルコはバルカン半島の覇権を巡って再び開戦します。「墺土戦争」(おうとせんそう)の勃発です。この戦争においても、先のトルコとの戦いで活躍したオイゲン公がオーストリア軍の総司令官となってオスマン軍を迎え撃ち、ペーターヴァルダインの戦いで15万の敵を約半分の8万の軍で見事に破り、さらにベオグラード包囲戦で同じく15万のトルコの大軍を10万の軍で再び破りました。

Eugene_of_Savoy_during_the_Battle_of_Belgrade_1717.jpg

上が「ベオグラード包囲戦」で陣頭指揮を執るオーストリア軍総司令官のオイゲン公です。この将軍はとにかく強いんです。彼の活躍により、この「墺土戦争」は1718年にオーストリアの勝利で終わり、同年両国間で結ばれたパッサロヴィッツ条約で、トルコはオーストリアにさらに領土を掠め取られてしまいました。

オイゲン公の活躍でトルコの脅威を退けた皇帝カール6世は、この時点でハプスブルク家単独の領土としては歴代最大の版図を支配していました。(それまでの皇帝はあくまで神聖ローマ皇帝として、その神聖ローマ帝国の領土として各国を支配していましたが、この時はハプスブルク家直轄領として各国を支配していました。)

そのカール6世は意外にも大きな夢を抱いていました。それはオーストリアも海外植民地を手に入れ、かつてのスペイン、ポルトガルの様な大海洋国家にしたいというものです。つまり彼は、歴代ハプスブルク家の皇帝としては初めて「海」に目を向けたのです。

もともとハプスブルク家の本拠地オーストリアは内陸国であり、その支配地であるボヘミア、ハンガリー、チロルなども全て内陸国でした。そのため歴代ハプスブルク家の皇帝たちは海外進出など考えた事もなかったのです。それに先のスペイン継承戦争で、皇帝になる前のカール6世がスペイン王になろうとしたのも、そもそも海外領土から上がる莫大な富が欲しかったからに他なりませんでした。

しかしオスマン・トルコの衰退が明らかとなり、トルコの脅威が去った今、オーストリアがアドリア海から地中海に進出する絶好の機会が到来したのです。彼はその手始めとして、オーストリアにおけるアドリア海の表玄関としてトリエステの港を整備し、ここを海外進出の拠点とします。

640px-Stadtzentrum_Triest.jpg

上が皇帝カール6世が目を付けた港町トリエステです。(人口約20万ほど)現在はイタリア領ですが、当時はオーストリア領でした。この街は古代から港として栄え、後にオーストリア・ハンガリー帝国海軍の軍港にもなります。(皇帝の先見の明は見事でした。この港町はその後、第一次大戦の敗北によってオーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊するまで、帝国の海の玄関として発展します。)

カール6世の在位中は後期バロック時代と呼ばれています。「バロック」とはポルトガル語で「歪んだ真珠」という意味だそうで、もともとはその歪んだ真珠をいかにしてジュエリーとして利用出来るかという、それまでの型にはまった伝統に縛られない、宝飾師たちの自由奔放な発想とデザインから生まれた芸術様式で、ジュエリーだけでなく、建築、文学、美術、音楽など全ての分野においてルネサンスの後のヨーロッパ全土に広まりました。このバロック時代を代表する人物といえば、なんといっても音楽の分野でヨハン・セバスチャン・バッハ (1685~1750)がいますね。

Bach.jpg

上がバッハの肖像画ですが、子供時代に音楽室で良く見かけた方も多いでしょう。彼の「トッカータとフーガ」や「小フーガ」のメロディは今でも聞くと鳥肌が立つほどの名曲です。

さて話をカール6世に戻しますが、彼にとって最大の悩みは男子の後継者に恵まれなかった事です。 彼は皇妃との間に4人の子が生まれましたが、唯一の男子は生まれてすぐに夭折し、後の3人は全て娘たちでした。つまりこのままではハプスブルク家の家系が絶えてしまいます。

しかし神聖ローマ帝国のゲルマン法においては女性の君主は認められず、それがゆえに建国以来今だかつて一度も女性の皇帝すなわち「女帝」は一度も存在した事がありませんでした。しかし後継ぎが娘しかいない彼には他に選択の余地がありません。そこでカール6世は歴代皇帝として初めて長子相続と領土の分割相続禁止を定めます。これによりそれまでハプスブルク家内で時折相続争いのもとになった領土分割を防ぎ、また後継男子がいない場合、長子すなわち娘でも帝位を継ぐ事が出来る様にしたのです。

カール6世の在位中は周辺諸国との戦争が続いていましたが、彼はこの取り決めを諸外国から承認してもらうため、オイゲン公が苦労して広げた各地の領土を各国に割譲してまでその根回しをします。こうして次なるハプスブルク家の後継者は彼の長女となる事が正式に決定しました。その長女の名は「マリア・テレジア」しかしカール6世の死後、彼女の相続を巡って周辺諸国は先帝が予想だにしなかった行動に走り、そして帝国は再び戦乱の渦に巻き込まれていく事になります。

次回に続きます。
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