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七年戦争 (前編) ・ 女たちの反撃

みなさんこんにちは。

1748年に終結したオーストリア継承戦争によって、マリア・テレジアはオーストリアの継承とその存在を全ヨーロッパに認めさせたのですが、その代償は大きいものでした。 8年続いたこの戦争で、オーストリアの国力は大きく疲弊し、さらにテレジアにとって屈辱的な事に、最も最初に彼女に戦いを仕掛けたプロイセン王国のフリードリッヒ2世に帝国の北部領土であるシュレージェン地方を奪われ、多額の賠償金を支払わされるはめになってしまったからです。

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この時期の彼女はまだ20代で若く、君主としては経験不足でした。そのためテレジアは有能な家臣たちを身分や階級を問わず次々に登用して国事に当たらせ、国政改革を断行していきます。 まず、国内統治と行政、財政には徹底した改革を唱えるボヘミア出身の貴族、ハウクヴィッツ伯に任せ、さらに軍の改革は歴戦の軍人であるダウン伯レオポルト将軍を任命、外交にはハウクヴィッツ伯の後を受けて宰相となったカウニッツ伯が当たります。

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上がハウクヴィッツ伯フリードリッヒです。(1702~1765)彼はプロイセンの侵略を受けたシュレージェンに領地を持っていた決して名門とはいえない田舎貴族出身でしたが、シュレージェン奪還のためにハプスブルク家に忠誠を誓い、テレジアを行財政面で支えます。 彼の尽力でオーストリアの国力は急速に回復していきますが、その彼の巧みな行政手腕を見抜いてテレジアに登用を薦めたのは、夫フランツ1世でした。

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そして上がハウクヴィッツ伯の後任として宰相となったカウニッツ伯ヴェンツェルです。(1711~1794)彼もハウクヴィッツ同様それほどの名家ではないボヘミア貴族出身でしたが、夫フランツ1世がその才能を評価して妻のテレジアに薦めた人物でした。(夫フランツ1世は政治的には何の実権も持っていませんでしたが、人を見る特殊な才能があった様ですね。) 彼は特に外交を得意とし、それまで誰も考え付かなかった驚くべきプランを計画し、テレジアに進言します。

その驚くべきプランとは、かつてハプスブルク家とヨーロッパの覇権を争ってきた300年来の仇敵であるフランスのブルボン家と同盟し、さらに東のロシアとも同盟して三方向からプロイセンを包囲するというものでした。

本来なら、これまでの両家の確執と経緯からこの様なプランは一蹴されてしまう所でしたが、当時のオーストリアは若いテレジアの下で徹底した改革の最中であり、シュレージェン奪還に燃えるテレジアの承認を受けて彼の計画は実行に移されていきます。

一方オーストリア・ハプスブルク家から「同盟」という話を持ちかけられたフランス側でも、最初はあまりの突飛さに「謀略」ではないかと疑われたものの、当時の情勢がフランスにおいてもこの話に乗る土台を作り上げていました。 この頃フランスはライバルであるイギリスの海外植民地競争に押され気味で、そのイギリスを支援していたのがプロイセンでした。そのため彼らはイギリスの孤立化を図るため、プロイセンを叩く必要があったのです。

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上は当時のフランス国王ルイ15世です。(1710~1774)彼はフランス第5王朝であるブルボン朝4代国王で、太陽王ルイ14世のひ孫でしたが、祖父や父が曽祖父ルイ14世よりも早くに亡くなったためわずか5歳で即位しました。しかし彼は国政を大臣たちに任せきりで、多くの愛人(なんと15人もいたそうです。)との間に13人もの私生児を成し、さらに正妻である王妃との間にも11人もの子を成した子だくさんでした。

そんなルイ15世の囲っていた多くの愛人のうちで、最も王の寵愛を受けたのがポンパドゥール侯爵夫人で、彼女は王の権威を背景に政治にも口を出すほどの権勢を振るっていました。

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上がそのポンパドゥール侯爵夫人です。(1721~1764)侯爵夫人といってもそれは後にルイ15世から与えられたもので、彼女自身は貴族出身ではなく平民の銀行家の娘でした。しかしその美貌と知性にすっかり惚れ込んだルイ15世は彼女を深く愛し、彼女の言う事なら何でも聞いてしまうほどのぼせ上がってしまいます。 やがて彼女は王の寵愛を良い事に国政にまで影響力を及ぼしていく様になります。

実はこのポンパドゥール夫人もプロイセンの王フリードリッヒ2世を毛嫌いしていました。その理由はフリードリッヒがたびたび女性を蔑視する発言を繰り返していた事にあるといわれ、彼女がルイ15世にオーストリアとの同盟を仲介したのは、政治的な意味よりも女性を公然と見下すフリードリッヒ2世に「思い知らせてやりたい。」という個人的な感情論から来るものではなかったかとも言われています。

マリア・テレジアはこのポンパドゥール夫人に、フリードリッヒ2世を共通の敵として供に戦おうという趣旨の手紙を何度も書き送ります。この手紙はカウニッツの手を通して夫人に届けられ、テレジアの言葉巧みな手練手管と同じ女としての心情から夫人はテレジアに同調し、彼女はルイ15世にオーストリアとの同盟を促します。 こうして1756年、両国の間で同盟が成立し、作戦は成功しました。

テレジアと宰相カウニッツ伯は、プロイセン包囲のためさらに東の大国ロシアへと目を向けます。 当時ロシアは女帝エリザヴェータの治世下にあり、同じくプロイセンに対して脅威を感じていました。テレジアはこのエリザヴェータにも手紙を書き送ります。

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上がロシアの女帝エリザヴェータです。(1709~1762)失礼ながらかなりお太りになった「ころころおばさん」という所ですね。(笑)宮殿を出てどこかへお出かけの様です。 彼女はロシア帝国第2王朝であるロマノフ朝第10代皇帝であり、テレジアにとってはうらやましい事に公然と「女帝」と認められていた唯一の存在でした。(このロシア帝国において女帝が認められているのは、彼らがゲルマン民族ではなくスラヴ民族の帝国であるからで、ロマノフ王朝においてはなんと4人もの女帝を出しています。)このエリザヴェータ女帝も、ポンパドゥール夫人同様に女性を蔑視するフリードリッヒ2世をとても嫌っており、テレジアの手紙にすぐに同調します。

こうして1756年、オーストリア・フランス・ロシアによる対プロイセン三国同盟が正式に成立し、マリア・テレジアは念願のシュレージェン奪還に向けてついに動き出します。

800px-Carte_Guerre_de_Sept_Ans_Europe.png

上の図がこの時のヨーロッパの国際関係を表したものです。

彼女は8年がかりで養成した新鋭オーストリア軍に動員令を発して国境付近に軍を集結させます。 一方オーストリア軍の不穏な動きは、プロイセンの王フリードリッヒ2世も一早く察知していました。 しかし今回は先のオーストリア継承戦争の時の様に彼の方から攻めていく戦いではありませんでした。 彼はマリア・テレジアが8年かけて周到に準備した対プロイセン包囲網によって完全に包囲され、今度は自分が周囲から攻められる状況に陥ってしまったのです。 まさにテレジアの見事な仕返しでした。 そして彼はこの3人の女たちの反撃によって、その後7年に及ぶ苦しい3正面作戦を強いられる事になります。

次回に続きます。
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