七年戦争 (後編) ・ 追い詰められるフリードリッヒ大王

みなさんこんにちは。

1756年のオーストリア・フランス・ロシアによる対プロイセン三国同盟は、その標的となったプロイセン王フリードリッヒ2世を驚愕させました。何しろロシアはともかく「水と油」のごとき仇敵同士であったフランスとオーストリアが手を結んだからです。彼は最初この事実を信じられませんでした。さらにこの同盟には北の軍事大国スウェーデンや、神聖ローマ帝国で古くからの強国ザクセン公国も加わっており、これによって彼のプロイセン王国は東西南北全方向から完全に包囲されてしまいました。

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上がプロイセン王フリードリッヒ2世です。(1712~1786)

この対プロイセン包囲網によって、プロイセンとこれらの諸国との人口比は400万対8千万という圧倒的な大差がついてしまい、常識的に考えれば全く勝ち目が無い状態に追い込まれたのです。そして彼は諸国に忍び込ませていた密偵らの報告により、裏でその全てを画策したのがオーストリアのマリア・テレジアである事も知っていました。

「これでは身動きが取れん。 あの女狐め! よくもやってくれたな。」

もとはといえば16年前の1740年、テレジアのオーストリア継承の弱みに付け込んでシュレージェン地方を奪い取り、あまつさえ多額の賠償金までふんだくった彼が悪いのですが、彼がシュレージェン地方に侵攻したのは鉄や石炭など、かの地の豊富な鉱物資源を求めての事でした。プロイセンは軍事国家であり、大砲や小銃、弾薬、砲弾の製造にそれらは不可欠であったからです。


彼の悩みは他にもありました。 それはプロイセンの領土内にこれといった産物が無く、さらに緯度が高すぎて寒冷なため、小麦などの作物が育ちにくい上に土地が痩せていて食糧が自給出来なかった事です。 そのため人民は貧しく常に飢えに苦しんでおり、フリードリッヒは王としてそうした人民の貧しさを肌身を持って良く知っていました。

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上がプロイセン王国の位置です。 領土の大半がバルト海沿岸部に面する辺境の一国に過ぎませんでした。

「この貧しさから我が人民を救うには、軍事力を強化して他国に領土を広げる他に手段はない。」

彼はそういう考えに帰結し、その第一段階として最も手近のシュレージェンを狙ったのです。 つまり権力者にありがちな貪欲な領土支配欲からではなく、彼の国プロイセンが周辺諸国から侮られ、さらにはそうした弱点を突かれて周辺国から攻められない様にするには、自国が強力な軍事国家となって周辺国から「恐れられる存在」にならなければならないという彼なりの定義があったからなのです。

「3枚のペチコートが私を陥れ、私の破滅を狙っている。」

これは彼が対プロイセン三国同盟の首謀者である3人の女たち、すなわちオーストリアのマリア・テレジア、フランスのポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝の事を皮肉を込めて言い表した言葉です。(「ペチコート」とは、女性がスカートの中に穿く白いレース状のものですね。自分が子供時代などは、母親の世代がよそ行きの服で出かける時に穿いていたのを記憶しています。最近の女性はどうなのか知りませんが。 笑 )


この様な情勢の下で「男」フリードリッヒは死中に活を見出そうとします。 彼は同盟の盟主マリア・テレジアのオーストリア軍が動く前に、先手を打って先制攻撃を仕掛けたのです。こうして1756年8月、以後7年続く事になる「七年戦争」の幕が切って落とされました。

彼はまず6万2千のプロイセン軍主力部隊を率いて隣国ザクセンに侵攻し、(位置は上の図参照)9月初めに首都ドレスデンを占領、ザクセン軍残存部隊約2万は天然の要塞ピルナに後退して抗戦を続けますが、10月初めにザクセン救出のためやって来た3万のオーストリア軍がロボジッツの戦いで敗退すると戦意を失い、まもなくプロイセン軍の包囲と兵糧攻めによって食糧が底を尽き、10月中旬に降伏します。

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上がザクセン軍が立てこもったピルナのケーニッヒシュタイン城です。画像では見えませんが、周囲にはいくつもの川が「天然の堀」として流れており、防御には理想的な地形です。

短期決戦を狙うフリードリッヒ大王は勢いに乗って翌1757年ハプスブルク領ボヘミアに進撃、6万4千の兵力で首都プラハを包囲し、ほぼ同数のオーストリア軍はここでも敗れ、総司令官カール・フォン・ロートリンゲン公率いる主力4万がプラハ城に籠城します。

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上がオーストリア軍総司令官カール・フォン・ロートリンゲン公です。(1712~1780)彼はマリア・テレジアの夫である皇帝フランツ1世の弟で、政治、行政には有能でしたが、どうも軍人としては落第生だった様で、それが証拠に彼は大きな作戦で5回も敗れており、その内4回がフリードリッヒとの戦いでした。(いや彼が弱かったのではなく、フリードリッヒ大王がそれだけ戦上手で強かったというべきでしょうか。)

ここまではフリードリッヒ大王率いるプロイセン軍が優勢でした。しかし、プラハ救援のため新たにテレジアが差し向けたダウン伯レオポルト将軍率いる増援軍5万がプラハに接近、大王は包囲軍の半数の3万2千の兵を率いてこれを迎え撃ちます。これが「コリンの戦い」です。しかしこの戦いでこれまで無敵を誇ってきたフリードリッヒ大王は、敵将ダウン将軍の巧妙な作戦によって1万3千もの死傷者を出し、初めて大敗してしまいました。

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上がプラハ救援オーストリア軍司令官のダウン伯レオポルト将軍です。(1705~1766)彼がどの様にして戦上手のフリードリッヒ大王と強力なプロイセン軍を破ったのかというと、何度も後退と攻勢を繰り返す事で敵を焦らし、疲れさせ、業を煮やした敵が一気に決着をつけるべく総攻撃を仕掛けてきた所で温存していた伏兵部隊によって両側面から挟み撃ちにするというものでした。ロシアやフランスが動かないうちに早く決着を着けたい大王は、焦りのためかこれに引っかかってしまった様です。(見事プラハを奪還したダウン将軍は、テレジアの命によってカール公からオーストリア軍総司令官の職を引き継ぎます。)

この敗北によってフリードリッヒ大王はプラハ攻略を諦めざるを得なくなり、ボヘミアからの撤退を余儀なくされます。それだけではありません。7月には戦争準備を整えたフランス軍が西からドイツに攻め入り、ドイツにおけるプロイセンの唯一の味方であるハノーヴァーを攻撃、さらに8月にはロシア軍が東プロイセンに侵攻し、南からはオーストリア軍が迫るという大王が最も恐れていた3正面作戦に陥ってしまいました。 いかに強力な軍隊を持つとはいえ総兵力が10万余りで、圧倒的に兵力の少ないプロイセンは本国の防衛のため完全に守勢に回る事になり、フリードリッヒは夜討ち朝駆けで各地を転戦せざるを得なくなります。

しかし凡人なら普通ここで早々に降伏してしまう所でしょうが、このフリードリッヒ2世は違いました。 彼はすでにこの時期から将兵たちに「大王」と呼ばれていた男です。 彼はこの様な追い詰められた状況にあっても決して折れる事無く不屈の精神で戦い抜いていき、戦いは一進一退の膠着状態が続きます。(これはかつてのオーストリア継承戦争で、まだ若かったマリア・テレジアが味わわされたものと同じ苦痛をそのまま返された状態ですね。それにしても因果応報とはいえ人の恨みとは恐ろしいものです。みなさんも気をつけましょう。 特に女性には。 笑 )しかしそんな彼にもやがて正真正銘の存亡の危機が訪れ、彼は本当に死を覚悟するほどに追い詰められていく事になるのです。

次回に続きます。
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