その後のポルトガル共和国 ・ 海上帝国から文化国家へ

みなさんこんにちは。

1910年の革命によってブラガンサ王朝を倒し、王制を廃止して共和国となったポルトガルは、その後何人もの軍人たちによるクーデターや政変に見舞われ、政情は混乱していましたが、1932年になってアントニオ・サラザールが首相に就任、第二次大戦時にはナチス・ドイツやファシスト・イタリアなどの枢軸国と連合国、戦後の東西冷戦時には米ソ両陣営のどちらにも着かず離れずバランスを保ちつつ「中立国」として巧みに運営していきました。

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上がポルトガル首相アントニオ・サラザールです。(1889~1970)彼は熱心なカトリック信者で、若い頃は「神父」を目指していましたが、コインブラ大学で政治経済学の教授となり、この時代に論文や新聞などに記事を書く様になったのが政治家への道に進む発端でした。しかし「神」を信じた穏やかな青年は、後にそれとは正反対の人々から恐れられる冷酷な独裁者になってしまいました。

彼は破綻していたポルトガルの財政問題を解決して経済を安定させ、「エスタド・ノヴォ」(新国家体制)をスローガンに掲げてポルトガルの全権を掌握し、1968年まで36年に及ぶ長期独裁政権を維持しましたが、その間にポルトガルのアフリカにおける海外領土アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウで次々にポルトガル本国に対する独立戦争が勃発、1961年彼は「ポルトガルの名誉にかけてこれらを叩き潰す」として国家予算の40%(軍事費ではありません「国家予算」の4割を使ったのです。)もの巨費を投じて合計14万8千という、小国のポルトガルにとっては歴史上初めての大軍を派遣しました。

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上はアンゴラとモザンビークに展開するポルトガル軍地上部隊です。サラザールはアンゴラに6万5千、モザンビークに5万1千、ギニアビサウに3万2千のポルトガル軍を送り込みます。(一度に3正面作戦とはこれはもう無茶苦茶ですね。)しかし時はすでに20世紀、もはや植民地帝国主義の時代はとうに終わりを迎え、イギリス、フランス、スペイン、オランダなど、かつてポルトガルと数百年に亘って熾烈な植民地争奪を繰り広げた国々も、二度の世界大戦ですっかり疲弊し、もう軍事的、経済的に広大な海外領土を維持する事が出来ず、次々にこれらの独立を許し、または独立戦争で失っていました。

にもかかわらずサラザールは植民地戦争を続行し続け、反対する者は秘密警察を使って次々に逮捕投獄して徹底的に弾圧し、亡くなるまで信念を変えようとはしませんでした。(これはもう執念ですね。)結局この戦争でポルトガルが得たものは何も無く、8千の戦死者、1万5千の負傷者、(旧植民地側ははるかに多い7万の戦死者を出したそうです。)巨額の軍事費による財政圧迫と「時代遅れの最後の帝国主義」と揶揄された国際社会からの非難と孤立だけでした。

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上は戦死者を埋葬して悲しみに暮れる国民です。そんな中の1968年、独裁者サラザールが不慮の事故で重体となり、その2年後に亡くなります。(なんとハンモックで昼寝中コンクリートの地面に頭を強打し、2年間も意識不明だったそうです。そしてその間に後任者のカエターノが政権を引き継ぎ、サラザールが意識を回復した時、彼は「最高権力者」から無位無官の一市民になっていました。しかしもはや高齢で余命いくばくも無く、周囲の人々は彼を不憫に思い、彼にその事を知らせまいと執務室を元通りにしたり、偽の新聞まで作って亡くなるまで数ヶ月の間、彼が最高権力者のままであると思い込ませ、騙し続けたそうです。サラザールがその事に気づいていたかは不明ですが、こんな変わった最後を迎えた人も珍しいですね。)


サラザールの死後も戦争を継続した後任政権に対して、戦争の中止と自由を求める国民の怒りが頂点に達し、1974年4月25日に「カーネーション革命」という無血革命で政府と秘密警察を倒し、市民による民主化が成し遂げられました。そして新政府は一部を除くポルトガル海外領土の全てを放棄する事に決して兵を引き上げ、1961年から13年続いた「植民地戦争」は終結し、事実上この時点を持って「海上帝国」は消滅しました。

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上はカーネーション革命のポスターです。個人的な推測で恐縮ですが、時代的に恐らくベトナム反戦やジョン・レノンの「ラブ・アンド・ピース」の影響を受けているのではないかと思います。


その後のポルトガルは現在に至るまで大きな混乱は無く、リーマンショック後の経済苦境はあれど(それはわが国も含め、世界中みな同じでしょうが。)EU(ヨーロッパ連合)加盟国として、また国際社会の一員として小国ながらその役割を立派に果たしています。現在の人口は1064万人で、首都はリスボン(人口56万)主な産業は農業、漁業などの一次産業と観光などの三次産業ですが、もちろん工業も相応に発達しています。主な産物はオリーブ、ワイン、小麦、コルクなどであり、中でもコルクは全世界の生産量の52%が同国の生産だとか。(わが国で使われるコルクの3分の2がポルトガル産だそうです。)またこの国は米の消費量がヨーロッパ一多く、下の画像の様に日常的に良く食べられているそうです。

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上がポルトガルの家庭料理フェジョアーダ(豆と野菜、豚肉、牛肉の煮込み)下が海鮮リゾットです。どちらもおいしそうですね。これなら我々日本人の口にも合うと思います。

さらにこの国は二度の世界大戦でも中立国であったために戦火を免れ、その結果中世から近代に至る貴重な建築物や文化財が数多く残っており、世界中から多くの観光客が集まり、各国から歴史物の映画やドラマの撮影に使用されたりして、文化国家として生まれ変わった今日のこの国の観光業を支える大きな財産となっています。

ポルトガル人は、我々日本人の祖先が始めて出合い交流した「西洋人」であり、その彼らから伝えられた様々な西洋の知識と文化、「鉄砲」を初めとする驚くべき品々などはその後のわが国の歴史を変える大きな原動力となりました。そして何よりこのヨーロッパ最西端の小国が「大航海時代」を先頭を切ってスタートさせ、世界の歴史を大きく変えた事は、「国家の繁栄」というものが国土の大小や机上の優劣ではなく、そこに住む人々の「自分たちの未来への揺ぎ無い自信」、繁栄への「明確な戦略と確固たる方向性」、失敗を恐れぬ飽く事の無い「探究心と努力」によって成されるものだという事を、長い低迷にあえぐ現代のわが国に教えてくれる良い手本ではないかと思います。

ポルトガル海上帝国への道 終わり。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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