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ブーヴィーヌの戦い ・ 熾烈な帝位争奪戦

みなさんこんにちは。

1197年9月、父バルバロッサに劣らぬしたたかさでシチリアを手に入れた神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世は32歳の若さで亡くなりましたが、後を継ぐ息子のフリードリッヒ2世はまだわずか3歳でした。そのため当初は母である皇后コンスタンツァ(1154~1198)が摂政として幼い息子の後見人となりますが、シチリア王女でもあった彼女は夫ハインリッヒ6世の命によりシチリア弾圧を実際に実行していたドイツ諸侯を嫌い、彼らをシチリアから追い出そうと彼らにドイツ本国への帰国を命じます。

しかしドイツ諸侯がこれに素直に従うはずがありません。皇后と諸侯は対立しますが、結局それから1年余り後の1198年11月、皇后コンスタンツァはまだ幼いフリードリッヒ2世の事を案じながら夫の後を追う様に亡くなります。そして彼女のドイツ諸侯への対応はその後のシチリアに10年に及ぶ内乱を招く事になってしまいました。

それでも彼女は短い期間でしたが摂政として息子フリードリッヒのために奔走し、時のローマ教皇インノケンティウス3世にフリードリッヒのシチリア王即位を認めさせ、自らの死が近づくと、自分亡き後のフリードリッヒの後見人を教皇に託しました。

一方帝国内では、幼少のフリードリッヒを巡って帝国諸侯が対立を激化させていました。皇后コンスタンツァ亡き後、先帝ハインリッヒ6世の末弟であり、シュタウフェン王家の実質的家長であったシュワーベン公フィリップと、シュタウフェン家の宿敵であるヴェルフェン家のオットー4世が帝位を狙って帝国を二分する争いを展開していたからです。

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上がシュワーベン公フィリップです。(1178~1208)彼は幼いフリードリッヒ2世の叔父に当たり、当初はライバルのオットー4世より優勢でしたが、1208年に娘の結婚問題からバイエルンの貴族に暗殺されてしまいます。(この暗殺は、教皇インノケンティウス3世が影で糸を引いていた様です。教皇はシュタウフェン家のシチリア支配を阻止するため様々な妨害をしていました。)

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そしてこの人物がヴェルフェン家のオットー4世です。(1175~1218)彼はバルバロッサのライバルでもあったハインリッヒ獅子公の次男で、フィリップの暗殺によって正当な後継者であるフリードリッヒ2世が幼い事を良い事に、これを差し置いて1209年、神聖ローマ皇帝として教皇インノケンティウス3世から戴冠されます。

オットー4世の皇帝即位によって、シュタウフェン家は一時的ではありますが、神聖ローマ皇帝位を他家に奪われてしまいます。しかしその後、皇帝オットー4世は神聖ローマ皇帝の慣例ともいうべき「イタリア遠征」を計画し、軍勢を集結させました。しかしこれが彼のつまづきの始まりとなります。(これは彼にとってその地位を脅かす最大の存在であったシチリアのフリードリッヒ2世を狙ったものと思われます。) 

なぜならそのオットー4世の前に、世界で最も難しい(というより面倒な)敵が立ちふさがったからです。それは彼を皇帝にしたローマ教皇インノケンティウス3世その人でした。皇帝のイタリア遠征計画を知った教皇はこれに怒って1210年に皇帝を「破門」してしまい、これによってオットー4世は帝国諸侯の支持を失う事になってしまいます。

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上が皇帝オットー4世を破門した時の教皇インノケンティウス3世です。(1161~1216)彼は先帝ハインリッヒ6世の皇后コンスタンツァから幼いフリードリッヒ2世の後見人を託されていました。また彼はローマ教皇がその宗教的権威を最も発揮した「教皇権全盛時代」の教皇の一人でもあり、彼の演説にある「教皇は太陽であり、皇帝は月である。」の言葉からも当時の権威のほどがうかがえます。

皇帝オットー4世にとって状況は悪くなる一方でした。こうして時を重ねるうちに、南のシチリアにいる神聖ローマ帝国の正当な帝位継承者フリードリッヒ2世はすくすくと成長してすでに13歳になっており、その彼の後見人は他ならぬローマ教皇自身でした。オットー4世が敵になった以上教皇はまだ少年であり、自由に操れるフリードリッヒ2世を帝位に付かせる事は時間の問題です。そうなれば教皇と諸侯の都合でうまく皇帝になった彼はいつ廃位されてもおかしくないのです。

それだけではありません。シチリアを狙うフランス王フィリップ2世がフリードリッヒ2世の帝位継承を支持し、南の教皇とともに西からオットー4世を追い立てる手筈を整えていました。不利な状況に陥った皇帝オットー4世は態勢を挽回するため、当時フランスにおける領土奪還に燃えていた叔父に当たるイングランド王ジョンを味方にしてこれらに対抗します。(今回の事態はこれまでの皇帝たちがかつて散々悩まされた教皇と諸侯に加え、イングランド王とフランス王まで介入する大規模なものになっていました。)

やがて彼らの対立は激化し、ついに1214年7月、フランス北部フランドルとの国境に近いブーヴィーヌで両者は決戦に及びます。「ブーヴィーヌの戦い」の始まりです。両軍の兵力は皇帝軍2万5千に対し、フランス軍は1万5千で、兵力ではイングランド軍を含めた皇帝軍が圧倒していました。そのため戦闘は当初は皇帝・イングランド連合軍が有利でしたが、皇帝軍は帝国諸侯も合わせた混成部隊であったために指揮統率が乱れ、結局フィリップ2世の下で統一組織されたフランス軍の反撃で皇帝軍は戦死1千に対し、1万近い捕虜を出して大敗してしまいました。

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上が開戦の前に騎士たちを鼓舞激励する当時のフランス王フィリップ2世です。(1165~1223)彼はフランス第2王朝であるカペー朝第7代国王で、イングランド、神聖ローマ帝国、ローマ教皇、国内のフランス諸侯らを巧みな政略で向こうに回しつつ、それまで脆弱だったフランス王国の国威を高めた事で、フランス最初の偉大な王として「尊厳王」と呼ばれています。

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そして上の人物が皇帝オットー4世の同盟者であり、当時のイングランド王ジョンです。(1167~1216)彼はイギリス第2王朝であるプランタジネット朝第3代国王で、世界で始めて君主の権力を制限し、後の立憲君主制の元となるあの「大憲章」(マグナ・カルタ)を認めさせられた事で有名な王ですね。彼はこの戦いでフランスに敗れて領土を大きく失なった事から「欠地王」、「失地王」などと呼ばれ、さらに教皇には「破門」され、国内統治もうまくいかなかった事からイギリス本国では「イギリス屈指の暗君」と呼ばれてしまっています。

上のフランス王フィリップ2世とは正反対ですね。彼の失敗は長くイギリス歴代王家に語り継がれ、そのため後のイギリス歴代王朝では「ジョン」という名は縁起が悪いと言う事で、彼と同名の「ジョン」という王はその後現在に至るまで一人も存在しません。彼が「ジョン1世」と呼ばれないのはそのためです。(先日生まれたイギリスのウイリアム王子とキャサリン妃の王子も「ジョージ」でしたね。将来彼がイギリス王になれば、現エリザベス女王の父王がジョージ6世でしたから、順番からいって「ジョージ7世」になると思われます。)

さて皇帝オットー4世に話を戻しますが、彼はこの敗北によって当然のごとく皇帝としての権威も信用も失い、帝国諸侯と教皇によって1215年廃位され、失意の内に自領のブラウンシュヴァイクで3年後に亡くなります。そして帝位はすでに18歳の立派な若者に成長していたフリードリッヒ2世に戻り、シュタウフェン家が皇帝家として返り咲くのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フリードリッヒ2世とシチリア王国 ・ 早熟の秀才皇帝

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国の帝位がシュタウフェン王家に戻った1215年頃、同王家の当主は若干18歳の若き王フリードリッヒ2世でした。彼はバルバロッサの孫に当たり、ドイツ王であり、帝国皇帝であった父ハインリッヒ6世と、ノルマン・シチリア王国の王女であったコンスタンツァを母に持つ、まさに北と南の申し子でした。

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上が神聖ローマ帝国シュタウフェン朝第4代皇帝フリードリッヒ2世です。(1194~1250)しかし彼の幼少期はわずか3歳で父を、その翌年には母を亡くし、物心ついた時点ですでに寄る辺なき「孤児」という不幸なものでした。その上まだ幼い彼を利用して権力を握らんとする叔父や帝国諸侯など、周囲の大人たちの都合勝手に振り回され、母コンスタンツァの計らいで何とか「シチリア王」の王位とローマ教皇の庇護という身分的保護を得てはいたものの、彼の立場は「吹けば飛んでしまう」非常に弱いものでしかありませんでした。


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このフリードリッヒ2世について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。上巻300ページ、下巻は278ページほどで、地中海世界の歴史を語らせたら他に並ぶものの無い作家、塩野七生さんの最新作です。この方は小説家なので、学者の書いた本とは全く違うくだけて分かりやすい、それでいて緻密な分析に基づいた優れた作品である点が大きな魅力です。

そんな幼い王の後見人兼保護者であったのが当時のローマ教皇インノケンティウス3世で、彼は懐に飛び込んできたこの幼子を、将来の神聖ローマ帝国と、ローマ教皇国の命運を左右する「強力な切り札」として手厚く保護育成し、まだ幼い今の内にローマ教皇に絶対臣従する敬虔なカトリック信者に仕立て上げ、成長した彼を帝位につけて間接的に帝国を教皇の意のままに動かし、支配する事が出来るよう教育すべく、選りすぐりの教師団を彼のいるシチリアの首都パレルモに差し向けます。

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上がシチリアの首都パレルモの現在の街並みの様子です。(人口およそ67万人。)しかし教皇の将来を見据えた遠大な計画の命を受け、はるばるシチリアにやって来た教師団は早々に驚愕させられました。なぜならこの幼い王が、あまりに早熟した頭脳を持つ天才であったからです。

幼いフリードリッヒは諸侯によって人質生活を余儀なくされ、その生活は日々の食事にも事欠く有様で、哀れに思ったパレルモ市民から食糧を分け与えてもらう様な状況でしたが、彼は食事に代えて「知識」を貪欲に食べ続けていきます。彼はすでに4歳にしてラテン語を習得し、普通の子供なら絵本に親しんでいる年齢で歴史と哲学の本を読み始め、10代に達する頃にはギリシア語、アラビア語、ドイツ語、イタリア語、フランス語などを合わせ6ヶ国語を操り、科学にも深い興味を抱き、さらに知力だけでなく肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示したからです。

これは教皇にとって全く予想外でした。教皇はフリードリッヒを意のままに操れる狂信的カトリック教徒にするか、さもなくば知と教養の場から遠ざけ、政治にも軍事にも無関心で酒色に溺れる無能な王に仕立てるか、いずれにしてもローマ教皇国に無害な人物にするつもりでいたからです。周囲の大人たちがこの様な人々ばかりの中で、フリードリッヒは徹底的な現実主義者へと成長していきます。

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もともとフリードリッヒ2世の生まれ育ったシチリアのパレルモは、地中海の中央にあってイスラム、ビザンツ、ラテン文化が入り混じる当時最先端の知の宝庫でした。ヨーロッパとオリエント両方の全てが融合し、互いに共存して豊かな文化を花開かせていたシチリアは、当時の人々の憧れの場所だったのです。フリードリッヒは幸運にもこの地で生まれ育ち、それらに直に触れながら豊かな教養を身に付けていきました。

その頃北のドイツ本国では、諸侯が帝位を狙って相争い、それにローマ教皇、さらにはイギリス、フランスの王まで介入する始末でした。フリードリッヒは1210年わずか15歳でアラゴン王国の王女コンスタンツァと結婚し、(奇しくも亡き母と同じ名の妻でした。)その翌年には早くも後継者ハインリッヒ王子を儲けます。そして彼のいない間に皇帝となっていたヴェルフェン家のオットー4世が教皇との対立から廃位されると、新たなドイツ王となるべく初めてドイツに向かいます。

神聖ローマ皇帝はまずドイツ王になってからローマ教皇に戴冠されないと皇帝になれないのです。彼は生まれたばかりの息子ハインリッヒにシチリア王位を譲り、1220年までドイツ本国に滞在し、諸侯と教会の支持を集め、入念に自らの皇帝即位の準備をしていきます。そして同年、新教皇ホノリウス3世から即位の暁には「十字軍の実行」を条件にめでたく25歳で神聖ローマ皇帝として戴冠しました。

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上は彼が宮廷を置いたパレルモのノルマンニ宮殿です。オートヴィル朝時代のものをそのまま引き継いだもので、アラブ、ビザンツ、ノルマンの各様式が混合した典型的な建物です。(両翼の建物も全て宮殿の一部で、写真には写っていませんが、もっと大きな宮殿です。)

皇帝となったフリードリッヒ2世でしたが、彼は活躍の場を終生イタリアとシチリアに留め、帝国本土であるドイツ本国は息子ハインリッヒに任せきりで、ほとんどドイツに赴く事はありませんでした。彼がドイツに滞在したのは、皇帝即位前のドイツ王時代の最初の8年間のみです。これは彼のシチリアへの強い思い入れが影響しているのでしょう。

皇帝フリードリッヒ2世は長い内乱で荒れ果てたナポリ・シチリア王国の再建に取り掛かります。彼は父の代から続くシチリア反乱勢力の覆滅のため、各地の城砦を攻撃、陥落後破壊して新たな皇帝直轄の城を建設し、信頼出来る直属の行政官を派遣して支配を徹底させます。さらに将来の帝国の行政を担う官僚を養成するため1224年にナポリ大学を創設しました。(この大学はヨーロッパで最も古い大学の一つとしても有名です。)

こうして彼の統治は着々と進んでいたのですが、彼を皇帝として戴冠させた教皇ホノリウス3世は、皇帝がいつまでたっても約束の十字軍遠征に出かけようとしない事にいらいらしていました。さらに彼は、皇帝がイスラム教徒たちを優遇し、有能な者を側近として重用している事を苦々しく思ってもいました。

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上が教皇ホノリウス3世です。(1148~1227)彼はフリードリッヒの家庭教師として前教皇インノケンティウス3世から遣わされた人で、言わば「先生」でした。教皇は再三皇帝に対し、約束通り十字軍に出かけて異教徒を討伐し、聖地エルサレムを取り返すよう要求しますが、皇帝フリードリッヒは統治の忙しさを理由にのらりくらりとそれを先延ばし、結局教皇が亡くなるまで動こうとはしませんでした。

育ての親である教皇インノケンティウスと、教師のホノリウスも死んだ今、もはや彼にとって頭が上がらない相手はいなくなり、「重荷」の取れた彼とローマ教皇国とのつながりは途切れるのですが、やがてこの十字軍問題が、皇帝フリードリッヒとローマ教皇の長い戦いの引き金となり、以後彼は異教徒ではなく教皇の差し向ける敵と戦い続ける事になっていくのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
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早過ぎた近代人 ・ 敵はローマ教皇なり

みなさんこんにちは。

皇帝フリードリッヒ2世の家庭教師であり、フリードリッヒの十字軍遠征を何度も催促していた教皇ホノリウス3世が、ついにそれを見る事なく1227年に亡くなると、次の教皇グレゴリウス9世は一向に腰を上げようとしないフリードリッヒに対し、ついに十字軍を率いて聖地エルサレムを奪回しなければ「破門」すると脅しをかけて来ました。

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上が新教皇グレゴリウス9世です。(1143?~1241)彼は先の二代の教皇と違って皇帝フリードリッヒとなんらつながりは無く、また100歳近く生きた大変な長命で、歴代教皇でも屈指の厳格な法学者でもありました。

「破門」を突きつけられ、廃位の危機が迫ったフリードリッヒ2世はやむなく1228年、4万の軍を率いてエルサレムへと出発します。第6回十字軍の始まりです。しかしその途中で軍内に疫病が蔓延して多くの兵を失い、皇帝自身もそれに感染してその時は上陸もせずに帰って来てしまいました。

この知らせを聞いた教皇は、「戦に赴き、戦いもせずに逃げ帰ってくるとは何事か!」と激怒し、皇帝の病など「仮病」だといって結局フリードリッヒを破門してしまいました。フリードリッヒは破門を解くために教皇との会談を持ちかけますが、頑固な教皇は彼に会おうともしませんでした。 

仕方なく皇帝は破門されたまま残存部隊を率いて再び遠征に出かけますが、キリスト教軍の総大将である皇帝がそのキリスト教徒としての身分を剥奪されているのですから士気が上がるはずはありません。現地では味方の離反が相次ぎ、それ以前に宗教に寛容なシチリアで育った皇帝自身が、そもそも十字軍などやる気はありませんでした。

しかしはるばるやって来たからには何かしなければなりません。幸い彼は幼い頃からイスラム文化に深く接し、イスラム教徒のものの考えも良く理解していたので、当時のアイユーブ朝イスラム帝国のスルタンであったアル・カーミルとの間で極めて理性的かつ現実的な交渉が行われ、1229年2月、10年間の期限付きでエルサレムとその周辺の返還と、和平条約の調印に成功します。

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上がエルサレム返還と和平交渉に臨む皇帝フリードリッヒ2世(左)と、アイユーブ朝君主アル・カーミル(1180~1238)です。この2人はその後何度も手紙をやり取りしてその学識の豊かさを語り合い、親睦を深めてとても仲が良くなり、互いを「わが親友」として生涯親交を交わしました。

なぜこの時フリードリッヒ2世はこの様な条約を結んだのでしょうか?それは彼が徹底した現実主義者であった点からある程度推測が出来ます。幼い頃から歴史を良く研究していた彼は、人類の歴史に「恒久平和」など一度も存在せず、今後もありえない事を分かっていました。それならばたとえ10年という期限付きでも、「少なくともその間は平和と安定が享受出来れば良いではないか。」というのが彼の考えでした。

それに彼は民族、文化、宗教の違いといった「価値観の多様性」を認め、例えば「宗教はキリスト教だけが唯一絶対のもの。」という様な一つの価値観で他を完全否定するのではなく、考えの違う相手でもそれを尊重し、互いに共存し合う国家の建設を思い描いていました。つまり彼の目指した理想の国家とは、かつてそれを歴史上唯一実現した「古代ローマ帝国」であったのです。

しかし彼の理想は凡人たちには理解出来ようはずがありません。ローマ教皇をはじめ、現地のキリスト教騎士団は今回の皇帝の異教徒への対応を「弱腰だ。」として非難し、教皇グレゴリウス9世は、北イタリアの諸都市に命じて南イタリアに兵を進めさせます。まだ皇帝が帰国しないうちに先手を打ってフリードリッヒの根拠地ナポリ・シチリア王国を占領してしまうつもりでした。皮肉な事に、フリードリッヒの敵はエルサレムにではなく、ローマにいたのです。

「敵はローマ教皇なり。」 

フリードリッヒの命令一下、イタリアに戻った皇帝軍は素早く反撃してたちまち教皇軍を撃破し、劣勢に立った教皇は1230年にフリードリッヒの破門を解かざるを得なくなります。こうして破門を解き、十字軍もやり終えた皇帝は、1231年に以前から考えていた法令の発布を実行し、帝国内にシュタウフェン王家による絶対主義体制の確立を打ち建てようとします。彼が発布した法令の主なものは、かつての古代ローマ皇帝たちが思考したもので、

・都市・貴族・聖職者の権利の制限、
・司法・行政の中央集権的性質の確立、
・税制・金貨の統一、


の3本柱から成り、他にもはるか後の18世紀以降の近代啓蒙君主たちが思考した次の様な条文なども含まれています。

・貧民を対象とした無料の職業訓練・診察、
・私刑の禁止、
・薬価の制定、
・役人に対する不敬・賄賂の禁止、

この様に先進的な考えの持ち主であった事から、フリードリッヒ2世は後の歴史学者から「玉座の上の早過ぎた近代人」と称されるようになります。


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上は皇帝フリードリッヒ2世が発行した金貨です。地中海交易の中継地であるシチリアを持つ彼は帝国の経済的安定のため、交易から上がる収入を徴税する事を基本として様々な経済政策を打ち出しますが、この分野においてはあまり上手くいかなかった様です。なぜなら、フリードリヒはシチリア統治の初期時代から収入を商人からの借金の返済に充てており、治世末期には財政の大部分を商人からの借金に依存する構図が完成していたからです。

しかし彼は、学問と文化、芸術に大変な興味を抱いていました。パレルモの彼の宮廷ではユダヤ人以外にプロヴァンス、イングランド、イタリア、ビザンツ、イスラムの知識人が招かれ、シチリア宮廷は13世紀ヨーロッパにおいて最高の文化サロンとして発展します。

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上は19世紀に描かれたパレルモの宮廷の様子です。皇帝フリードリッヒ2世を中心に、人種、宗教を問わず、様々な人々が描かれています。皇帝の学問への飽く事無き興味は文学、天文学、数学、物理学、生物学にも及びました。

フリードリッヒ2世がみずからの権力基盤の強化に着々と取り組んでいた頃、ローマでは教皇グレゴリウス9世が焦りを募らせていました。このままフリードリッヒを野放しにしていては、ドイツとイタリアは完全に一つの帝国として一体化してしまい、南北から挟まれたローマ教皇国は存立の危機に立たされてしまう。教皇にとってナポリ・シチリア王国と北のドイツ神聖ローマ帝国本国は、なんとしても分断させたままにしておかなければなりませんでした。

「あのイスラムかぶれが、我らを侮りおって!何か貶める手立てはないものか?」

教皇は密かに帝国諸侯と北イタリア諸都市に謀略の手を回し、再びフリードリッヒへの攻撃準備に取り掛かります。そしてそのための「道具」としてある人物を巻き込み、その事がやがてフリードリッヒとシュタウフェン家に悲劇をもたらす事になっていきました。


次回に続きます。

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堕ちた鷲の紋章 ・ シュタウフェン王朝の滅亡

みなさんこんにちは。

神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世がシチリアのパレルモで華やかな宮廷文化の花を咲かせていた1230年頃、その長男で後継者であるハインリッヒ7世は、父帝から共同統治者であるドイツ王として北のドイツ本国を任されていましたが、ドイツでは帝国諸侯が相変わらずそれぞれの利益と権利を取り合う状態で、国王であるハインリッヒ7世の統治の及ぶ地域は限定されており、事実上彼の地位は父帝からドイツ本国を任された「総督」に過ぎないものでした。

これは「古代ローマ帝国」を理想の国家としていた父フリードリッヒ2世が南のナポリ・シチリアを帝国の本拠地とし、ドイツその他をその「属州」の様に考え、その属州に皇帝権力に対して反乱を起こさせないためには絶えず諸侯同士を争わせて「足の引っ張り合い」をさせて置く方が良いという方針だったからですが、息子ハインリッヒ7世は父のこうしたやり方に反発し、王として全ての上に君臨する事を望んでいました。

彼は自らの王権の強化を図ろうと諸侯の領地経営に介入しますが、これは諸侯の猛反発を買い、父フリードリッヒも息子の意向より諸侯の権利を尊重して1231年に「諸侯の利益のための協約」を結んで多くの権利を諸侯に認めてしまったので、ハインリッヒは父に対して大きな不満を抱くようになります。

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上がドイツ王ハインリッヒ7世です。(1211~1242)そんな皇帝親子の行き違いにつけ入り、若いハインリッヒをそそのかしたのが、父フリードリッヒの仇敵であったローマ教皇グレゴリウス9世でした。帝国の南北分断と皇帝フリードリッヒ2世の失脚を画策していた教皇は、そのための格好の「道具」として、皇帝の最大の弱点である息子を利用しようとしたのです。

教皇はハインリッヒにこう入れ知恵します。

「そなたは一人ではない。ロンバルディアと手を組めば良いのだ。」

ロンバルディアとは北イタリアの諸都市の事で、毛織物産業と金融業で財を成した富裕な商人たちが、その豊富な財力をバックに自治権を得、かつてバルバロッサをはじめ歴代皇帝と激戦を交えた事もある皇帝もおいそれと手を出せない地域でした。教皇はこのロンバルディアにも皇帝への抵抗を促します。

「あのバルバロッサの孫フリードリッヒが再びそなたらの自由を奪いに来るぞ。」 と。


ハインリッヒは教皇の誘いにまんまと乗り、同じく同調したロンバルディアと同盟してついに1234年、父に反旗を翻しました。しかし彼の計略はあまりに稚拙で無謀でした。なぜなら彼に味方する帝国諸侯は一人もおらず、彼の軍勢はその直属の家臣からなる数百騎の手勢だけだったからです。頼みの綱のロンバルディア都市同盟も、堅固な城壁を盾にした籠城戦は得意であったものの、平地での地上戦となると話が違い、結局彼の反乱は父によってあっさりとひねり潰されてしまいました。

降伏したハインリッヒの運命は悲惨なものでした。彼は王位継承権を剥奪された上、両目を潰されてプーリアの城に幽閉されてしまったのです。そして1242年2月に別の城に護送される途中で、父の兵の監視の隙を突いて谷底に身を投げて自殺してしまいました。(享年31歳)

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上がハインリッヒの投身自殺を描いた当時の絵です。この知らせに父である皇帝フリードリッヒ2世の心は当然痛みました。しかし皇帝である彼は心を鬼にするしかなかったのです。そしてこの事件を境にシュタウフェン家は滅亡への道を歩んでいく事になります。

ハインリッヒの死後、フリードリッヒは次男コンラート4世を新たな後継者にすると、今だ敵対するロンバルディア都市同盟に対して、これを討伐するため北イタリア遠征を行います。戦いは激戦の末皇帝軍が勝利したものの、彼の前にはその後も教皇の放つ敵が次々と現れました。業を煮やした皇帝は、教皇に従う全ての者を「敵」とみなすと脅しをかけ、教皇の下に集まる聖職者たちを逮捕、投獄していきます。そんな中の1241年、最大の敵ローマ教皇グレゴリウス9世が亡くなり、一時的に教皇側に権力の空白が出来ますが、1243年に新教皇インノケンティウス4世が即位して再び皇帝との戦いが再燃します。

新教皇インノケンティウス4世は前教皇グレゴリウスに引けを取らない謀略家でした。彼はフリードリッヒの手から逃れるため、ローマから遠くフランスのリヨンに移り、ここから対皇帝戦を展開します。教皇はフリードリッヒを破門の上廃位し、さらにはフリードリッヒを「神の敵」として帝国諸侯に「十字軍」まで呼びかけて反乱を煽り立てました。

事態はシュタウフェン王家にとって悪くなる一方でした。ドイツ本国ではハインリッヒの死後ドイツ王にしたフリードリッヒの次男コンラート4世に対して対立王が次々と現れ、教皇が焚きつけた帝国諸侯の反乱も各地で起こっていました。皇帝フリードリッヒ2世はそんな状況の中で、彼にとって唯一信頼出来る直属のイスラム軍部隊を率いて残りの生涯をこれらとの戦いに費やしていきます。(それにしてもキリスト教の守護者であるはずの神聖ローマ皇帝の軍勢が異教徒のイスラムであり、その敵がキリスト教徒の教皇や諸侯なのはなんとも皮肉な事ですね。)

そしてその戦いの最中の1250年12月、早過ぎた近代人にして早熟のリベラリスト皇帝フリードリッヒ2世は、56歳でその波乱に富んだ生涯の幕を閉じます。彼の夢見た帝国の建設は、幻のまま終わりを迎えました。帝位は次男コンラート4世が継承しますが、彼はわずか4年の在位で亡くなり、シュタウフェン王朝の終焉はもはや時間の問題となっていました。

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上がシュタウフェン朝5代皇帝コンラート4世です。(1228~1254)彼の死後、その子コンラディンがシチリア王になりますが、皇帝として戴冠は出来ず、事実上彼がシュタウフェン家最後の皇帝となりました。

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そしてこの少年がシュタウフェン王家最後の人コンラディンです。(1252~1268)彼はバイエルン公の下に身を寄せていましたが、叔父たちが教皇との戦いに敗れて敗死すると、シチリア王位奪還のためイタリアに向かい、フランス王ルイ9世の末弟で、かねてから南イタリアを狙うシャルル・ダンジューと戦います。しかしまだ少年であった彼は百戦錬磨のダンジューに敗れて捕らえられ、1268年同世代の親族7人とともにナポリのマルカート広場で斬首されました。(享年わずか16歳)

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上が捕らえられ、斬首を言い渡されるコンラディンたちを描いた絵です。3歳年上の親族で、仲の良かったバーデン辺境伯フリードリッヒ1世とともにいる所で、勝利したシャルル・ダンジューは彼らを処刑する事で、シュタウフェン家の根絶やしを図ったのです。こうして初代コンラート3世以来6代130年余り続いたシュタウフェン王朝は滅亡し、皇帝の鷲の紋章は地に堕ちてしまったのです。

次回に続きます。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大空位時代 ・ ローマ教皇と帝国諸侯の思惑

みなさんこんにちは。

1254年、神聖ローマ皇帝コンラート4世が即位してわずか4年後に26歳の若さで崩御すると、権力の空白が生まれた帝国内では帝国諸侯が次の帝位を巡って動き出し、また外においてはローマ教皇やイギリス王、フランス王などがこの機に乗じてそれぞれの勢力を伸ばそうと暗躍していました。

この間に「帝国皇帝」として戴冠するための前提条件である「ドイツ王」には候補者が乱立しますが、ローマ教皇や帝国諸侯らの足の引っ張り合いによってどれも決め手となる人物がおらず、神聖ローマ帝国は約20年に亘って帝国と言いつつも皇帝のいない時代を迎えることになります。いわゆる「大空位時代」の到来です。

先帝であるコンラート4世は、それまで5代120年以上も続いた帝国第3王朝であるシュタウフェン王朝出身でしたが、この王家は宿敵ローマ教皇との積年の対立によって次第に弱体化し、その後コンラート4世の子コンラディン王子はじめ、生き残った一族の帝位奪還のための奮闘も空しく、1268年のコンラディン王子の処刑と、彼の叔父であり、先帝コンラート4世の末弟であるエンツォの獄死によって、1272年に同家は断絶してしまいました。

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上が投獄されるエンツォです。(1220?~1572)彼はフリードリッヒ2世の私生児であり、父に似て教養も豊かな人物でした。その後先帝コンラートの異母兄弟としてサルデーニャ王を名乗りますが敗れて捕えられ、服役中に亡くなります。彼と甥のコンラディンの死で、ナポリ・シチリアに君臨したシュタウフェン王家は完全に滅亡しました。

さて残された帝国ですが、こちらは先に述べた様に教皇と帝国諸侯によってすでにシュタウフェン朝末期の数年前から対立王が次々と擁立されては消えていきます。チューリンゲン伯ラスペ、ホラント伯ウイレム(オランダ)、カスティリア王アルフォンソ10世(スペイン)、コーンウォール伯リチャード(イギリス)などです。これらの人々のうち、前者の2人は擁立後数年で亡くなり、後者の2人はそもそもドイツ諸侯ですらありませんでした。(当時の帝国諸侯にとって「皇帝」の存在がいかに「誰でも良い」ものであったか良く分かりますね。)

しかしこの中の1人であるホラント伯ウイレムという人物が、ここでささやかですが、ある意味で重要な事をしています。彼はドイツ王擁立の際に、将来自らが君臨する(予定であった)帝国にそれまで統一されていなかった名称をはっきりと付けたのです。それが「神聖ローマ帝国」でした。

後に「ドイツ国民の」という呼称が蛇足の様に付けられますが、初代皇帝オットー大帝即位以来300年の時を経て、それまで時の皇帝の方針次第で「帝国」「ローマ帝国」「神聖帝国」などところころ名が変転していたこの国家に、この時初めて正式な名が与えられたのです。名付け親のホラント伯ウイレムは、その後不慮の事故で亡くなり忘れ去られますが、その後19世紀の帝国崩壊まで550年以上に亘ってこの国は公私共にこの名で統一される事になったのです。

さて話を戻しますが、この頃帝国内は20年に亘る皇帝不在の間に混乱が続き、諸侯同士の争いも相まって各地で略奪が横行していました。中でもその損害を最も多く被っていたのが、諸侯よりもはるかに固有の武力が弱い教会領でした。そしてそれらの教会領を統べる、時のローマ教皇グレゴリウス10世は

「このままでは我らの財源である教会領が盗賊どもや諸侯によって奪われてしまう。」

と懸念し、1272年に帝国諸侯に次の様な声明を出して一刻も早く新国王を選出する様促します。


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上が当時のローマ教皇グレゴリウス10世です。(1210~1276)彼の懸念は教会領を荒される事だけではありませんでした。この頃から西のフランス王国が力を付け始め、当時のフランス王フィリップ3世が帝位を狙って立候補して来たからです。もし彼が皇帝になれば、帝国はフランス、ドイツ、イタリアにまたがる広大なものになってしまいます。それはローマ教皇にとって「悪夢」以外の何物でもありませんでした。

「直ちに新国王を選出して混乱を終結されよ。さもなくば自分が新王を決定する。」

教皇にとって帝国が強大になってしまっては困るのです。帝国の領域はあくまでもドイツとその周辺部に限定し、ドイツ諸侯の中から選出された者が「ドイツ王」となり、さらにローマ教皇の手によって戴冠されてはじめて「神聖ローマ皇帝」となるというスタイルにして置かなければなりませんでした。


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上が教皇グレゴリウスが密かに恐れた当時のフランス王フィリップ3世です。(1245~1285)彼は勇敢ではありましたが単純で乗せられ易い性格で、彼の帝位立候補は、叔父であり、シュタウフェン家を滅ぼしてナポリ・シチリア王となった野心家のシャルル・ダンジュー(1227~1285)が裏で暗躍していた様です。

教皇から新国王選出の通告(というより脅し)を受けた帝国諸侯たちでしたが、今日の議会の様に全ての諸侯に国王選出の権利があったわけではありませんでした。この頃からその権利を持つ「選帝侯」と呼ばれる一部の有力諸侯たちが大きな力を持つ様になります。

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上がその「選帝侯」を描いた中世の絵です。彼らは7人で構成され、上の絵の左側にいる赤い帽子の3人の聖職者(マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教)と、4人のドイツ諸侯(ザクセン公、ボヘミア王、ブランデンブルク辺境伯、ライン宮中伯)から成る言わば当時の「G7」でした。このうちマインツ大司教が筆頭とされ、名目上ではありますが「帝国大宰相」という最高官位を持っていました。

彼ら選帝侯たちはこの時代に(それ以前からですが。)帝国の混乱に乗じて特権と領地を掠め取り、のし上がっていった帝国随一の実力者たちで、以後帝国皇帝は彼らのみの選挙によって決められていくのですが、その彼らの新国王選出の判断基準は極めて利己的なものでした。

つまり彼ら選帝侯たちは、(他の諸侯もそうですが。)自分の領地で好き勝手やっていたいのです。そのためにはあまり有能で強大な皇帝を選んで即位させてはそれが出来なくなり、今までの様に甘い汁が吸えなくなります。神聖ローマ帝国に絶対君主は要らない。彼らにとって「ドイツ王」すなわち「皇帝」などは、諸侯をまとめるそこそこの力量を備えた言わば「毒にも薬にもならない。」人畜無害な人物であれば充分だったのです。

教皇の圧力でようやく新国王選出の準備に取り掛かった選帝侯たちですが、ここで困った事が起こります。彼らの目にかなう格好の人物がいないのです。これまでに擁立した人々はこの時期皆すでに亡くなっており、前王朝シュタウフェン家に連なる人物は、ローマ教皇らの絶対反対にあって実現せず、残る候補はフランス王フィリップ3世と、ボヘミア王オタカル2世でした。

このうちフランス王の方は、ドイツ諸侯で無い事を理由にあっさり否決されたので、教皇が最も恐れた「帝国の拡大」は杞憂に終わりますが、選帝侯の一人であるボヘミア王は候補から外すわけには行きませんでした。しかしこのボヘミア王オタカルは野心家でなおかつ力を持ちすぎているため、強大な皇帝を出したくない他の選帝侯たちが彼を選ぶはずはありません。

そこで新たなドイツ王として彼らが選んだのは、それまで誰も注目していなかったスイス辺境の山奥の小さな領主に過ぎないある一人の伯爵でした。その名をルドルフ・フォン・ハプスブルクといいます。そしてこの時からこのルドルフと、彼の一族であるハプスブルク家が歴史の表舞台に登場していく事になるのです。

次回に続きます。

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鷹の城の主 ・ ルドルフ1世とハプスブルク家の出現

みなさんこんにちは。

1254年のコンラート4世の死から20年近く、ドイツ王すなわち皇帝のいなかった神聖ローマ帝国でしたが、その間に帝国内外に生じた数々の混乱にたまりかねた時のローマ教皇グレゴリウス10世の新国王選出の催促によって、国王選出の権限を持つ7人の「選帝侯」たちはようやく重い腰を上げ、新たなドイツ王を選出しました。

しかし彼ら選帝侯たちが選んだのは、誰もがその結果に「仰天」する様な全く意外な人物でした。その名はルドルフ・フォン・ハプスブルク。ライン川上流、スイスのバーゼルからさらに奥地にある辺境の一領主でした。

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上が新たなドイツ王に選出されたルドルフです。(1218~1291)彼は正式にはハプスブルク伯ルドルフ3世といい、前述の様に帝国内に数多くいる「辺境伯」の一人に過ぎませんでした。この時彼は隣の領主であったバーゼル司教と領土争いの最中で、バーゼルの街を包囲し、明日にも総攻撃を仕掛ける準備をしていた所でした。

そこへ選帝侯の筆頭であるマインツ大司教から、使者としてニュルンベルク伯フリードリッヒがルドルフの陣に遣わされ、彼にドイツ王即位の決定を伝えたのです。ルドルフは彼と旧知の仲でしたが、フリードリッヒがあまりに突拍子の無い事を言い出したので、呆れたルドルフは彼に対して思わずこう言ったと伝えられています。

「人をからかうにもほどがある。そんな冗談は宴の時だけにしてもらいたい。」

そのやり取りを描いたのが上のイラストです。(さぞかし驚いた事でしょうね。情景が目に浮かぶようです。)しかしすぐにそれが事実である事を知るや、ルドルフはただちに明日の総攻撃を中止し、バーゼル司教と和睦して軍勢を引き揚げ、大急ぎで選帝侯会議の行われているフランクフルトに向かいました。もちろん国王即位のためです。

この時選帝侯たちが、ルドルフの様な辺境の裕福でもない弱小貴族を新国王に選出した理由は、前回もお話した様に自分たちの利益のために有能で強大な皇帝を即位させたくないという徹底した利己主義からでした。その結果領地も少なく、率いる兵力はかき集めても一千に満たず、質素で敬虔なカトリックである(つまり金はあまり無く、武力も強くなく、ローマ教皇と対立する心配も無い厳格なカトリック教徒である。)彼が選出されたのです。

こうして1273年9月、ハプスブルク伯ルドルフはドイツ王ルドルフ1世として即位しましたが、この人物、かなり外見に特徴のある人だった様です。痩せた長身でそれだけでも人の目を引くのですが、それ以上に人の注目を引いたのが彼のその大きな「鷲鼻」と、突き出た顎や下唇でした。(かなり強烈なインパクトのある顔の人だった様ですね。この彼の特徴的な顔立ちは、後に彼の子孫たちである歴代ハプスブルク家の人々に隔世遺伝として受け継がれていきます。)

さてこれでおよそ20年続いた神聖ローマ帝国の「大空位時代」は終わり、帝国の歴史は新たな段階に入っていくのですが、その前にここでルドルフの一族であるハプスブルク家について、彼らの起源と発祥地などをご紹介して置きましょう。

ルドルフがドイツ王に選出された時から遡る事200年ほど前、10世紀の中ごろからハプスブルク一族は、スイスのバーゼルとチューリッヒの中間に位置する地域を領地とし、そこに小さな城を築いて当家の居城としました。その城の名は「ハビヒツブルク城」といい、ドイツ語で「鷹の城」を意味します。(「鷲」ではないんですね。)そしてこの「ハビヒツブルク」が、当家の名「ハプスブルク」の由来であると云われています。

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上がハプスブルク家発祥の地である現在の「ハビヒツブルク城」の全景と城内の様子です。写真で見ると本当に小さな城であるのがお分かり頂けると思います。日本のお城でいうところの「天守閣」に相当する城の半分が現存していますが、「二の丸」とも言うべき部分は崩れて土台だけが遺構を留めています。(現在このお城はハプスブルク家発祥の地として、城内にささやかなミュージアムが作られ、それ以外はなんと結婚式場やレストラン、各種イベント会場として利用されているそうです。時代の移り変わりもここに極まれりですね。)

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上は築城当時のハビヒツブルク城の想像図です。ルドルフ1世はこの「鷹の城」の城主でした。後にヨーロッパ最大最長の王朝の創始者とされる彼は、かつてこの小さな城で寝起きしていたのです。そしてこの小さな城から「神に選ばれた一族」ハプスブルク家の人々の途方も無い物語が始まるのです。

ハプスブルク一族が領有したこの地は確かにスイスの山奥の辺境でしたが、近郊にはライン川につながる支流がいくつも流れる水上交通の要所があり、またドイツとイタリアを結ぶアルプス越えの街道にも近い、陸の交通の要所でもありました。ハプスブルク一族はこれらを行き来する人々から「通行税」などを徴収して財源とし、また十字軍遠征に失敗して留守中に領地や財産を失った騎士たちなどを召し抱えるなどして少しづつ勢力を伸ばしていった様です。

さらに彼らはザクセン家、ザリエル家、シュタウフェン家といった初期3王朝の歴代神聖ローマ皇帝たちのイタリア遠征などに同行して皇帝への忠義に励み、何度か武功を立てて皇帝から「辺境伯」の地位と、所領の安堵などを認められ、小さいながらも帝国諸侯の一員としてその末座に加わっていったのです。

しかしこの時期のハプスブルク家の歴史について、その他の詳しい事は良く分かっていません。何しろ900年も昔の事ですし、そもそも記録そのものがほとんど残っていないのです。彼らハプスブルクの名が歴史にはっきりと登場したのは、やはりこのルドルフがドイツ王として選出されて以降の事で、そのため後に当家が神聖ローマ帝国の皇帝家となってからは、彼の子孫たちはこのルドルフ1世を一族の始祖として、その後のルドルフの伝説的な大勝利や数々のエピソードを神話化し、永遠の繁栄と栄光を当家に導く守り神として崇めていきます。

さてここでもう一つ意外な事実があります。思いもかけずドイツ王になったルドルフに対して、真っ先に彼に臣下の礼を示して従ったのが、ルドルフに国王選出の知らせを届けに来た親友であるニュルンベルク伯フリードリッヒ(1220?~1297)でした。

それはごく自然に親友として、また信義に厚い騎士道精神から彼らの間で必然的なものだったと思われますが、彼は当時はルドルフとさして変わらない程度の規模の貴族でしかなかったホーエンツォレルン家と呼ばれる一族の当主でした。しかしこの一族はやがて400年後の17世紀半ばに「プロイセン王国」を興し、その王家となって後にオーストリア・ハプスブルク家と覇を競う争いを続ける事になるのです。(かつての親友同士の子孫が数百年後に仇敵になってしまうとは、歴史とは本当に残酷なものです。)

次回に続きます。

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マルヒフェルトの戦い ・ 貧乏伯爵の逆転勝利

みなさんこんにちは。

選帝侯たちの勝手な思惑で、事前に何の打診も無くドイツ王に決定されたルドルフ・フォン・ハプスブルクが、あたふたと即位して慣れない玉座の上で今後の事をぼんやり考えていた頃、彼のドイツ王即位を腹わたの煮え繰り返る思いで見ていた人物がいました。それは選帝侯の一人でボヘミア王であったオタカル2世です。

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上が当時のボヘミア王オタカル2世のイラストです。(1230?~1278)彼はボヘミア(現チェコ) のプシェミスル朝の王で、巧みな政治力と軍事力で周辺地域を支配下に収め、一時はボヘミア本国の他、オーストリア全域と、ハンガリーやポーランドの一部を領有する大勢力となり、当時の帝国最大の実力者でした。

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上が当時のオタカル2世の支配領域です。

彼は上で述べた様に非常に強力な王でした。そのため当然の事ながら次のドイツ王すなわち神聖ローマ皇帝には自分こそがふさわしいと自認していたのです。しかし彼がこの様な強い力をもっていたからこそ、強力な王を出したくない他の選帝侯たちから避けられ、王位は彼の元から離れていってしまったのでした。

オタカルは新たなドイツ王としてルドルフが決定した事に非常に腹を立て、その決定を下した選帝侯たちよりも、当のルドルフ本人にその怒りの矛先を向けていきます。(ルドルフにとっては大迷惑だったでしょうね。彼もなりたくて王位に付いたのではないのですから。)

「あの貧乏伯爵のルドルフめ!憎んでも飽きたらぬわ!こうなればどうするか見ておれ。」

オタカルは新たなドイツ王に即位したルドルフに対して、帝国諸侯の慣例である臣下の礼の証として召集される儀式も無視して参列せず、公然とルドルフへの対決姿勢をあらわにします。「自分はお前など絶対に王として認めないぞ。」というわけです。

彼がこれほどまでにルドルフに対して敵対心をあらわにしたのにはもちろん理由があります。つまりオタカルとルドルフではそもそも身分的な「格」が違うのです。オタカルは一国すなわちボヘミアの国王であり、先に述べた様にポーランドからアドリア海に至る広大な領地を保有し、そこから上がる収入も帝国一で、その財力を背景にいつでも数万の軍勢を動員出来る「金持ち王」でした。それに引き換えルドルフの方は前回も述べた様に、スイスの山奥の辺境の「一伯爵」に過ぎず、領地もオタカルの20分の1程度しかありませんでした。

一国の王であり、帝国最大の実力者である自分が、一伯爵上がりの田舎者にひざを屈して臣下の礼を取るなど、彼のプライドが断じて許せなかったのです。

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一方思わぬ事からドイツ王に即位したルドルフ(上の彫刻の人です。)の方は、その驚きからもじきに醒め、自らに課せられた運命を受け入れ「王」として帝国諸侯の上に君臨する事を決意します。その手始めとして彼はまず、自分に臣下の礼を取った諸侯以外で儀式に参列しなかったオタカル2世はじめ一部の者をリストアップし、その者たちに3度の機会を与えて自分に会いに来るよう招換します。(これはプライドの高いオタカルを刺激しないよう他の諸侯と合わせて勧告したものと思われます。) 

しかし他の一部の諸侯も皆ルドルフに従ったのに、結局オタカルは3回目の勧告も無視して最後までルドルフへの臣従を拒否しました。ここに至ってルドルフはドイツ王として最初の大なたを振るいます。彼はオタカルに対し、「帝国アハト令」を宣告したのです。このアハト令とはゲルマン古来から伝わるもので、言わば帝国諸侯としての一切の権利を剥奪し、帝国から追放するというものです。もちろん地位も領地も財産も全てです。

このルドルフの宣告によって両者の関係は修復不可能となってしまいますが、実はこれこそがルドルフの狙いでした。これによって彼は、「帝国への反逆者」オタカル2世を討伐する大義名分を得ることが出来たのです。

「あの様な性格の男では自分に従う事などあるまい。ならば王として力で駆逐するより他に道は無い。」

彼はオタカルの人となりを冷静に分析し、周到に時間をかけてその時を待っていたのでした。さらに彼はこの時、他の帝国諸侯たちから自分が王としての実力を試されている事を良く自覚していました。


1278年8月、ついに両者は帝国の支配権を巡り、オーストリアの地で激突します。「マルヒフェルトの戦い」の始まりです。両軍の戦力はルドルフ1世率いる帝国軍3万に対し、オタカル2世率いるボヘミア軍2万5千でした。

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兵力はハンガリー王と手を結んだルドルフの帝国軍が上回っていましたが、オタカル王のボヘミア軍も強力で、当初は帝国軍が押され気味の激戦でした。しかしここでルドルフが事前に戦場の森や丘の各所に配置した数十騎単位の伏兵が大きな威力を発揮します。突如現れた伏兵の攻撃にボヘミア軍は大混乱に陥り、さらにハンガリー軍による側面攻撃も相まってやがてボヘミア軍は総崩れとなって壊滅、総大将のオタカル2世もこの戦いで戦死してしまいました。戦いは「貧乏伯爵」ルドルフ1世の逆転大勝利に終わったのです。

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上はマルヒフェルトの戦いの勝利者たちであるドイツ王ルドルフ1世と、同盟者として供に戦ったハンガリー王ラースロー4世を描いた19世紀の絵です。(1262~1290)ルドルフはこの時すでに58歳でしたがラースローはこの時なんとまだ16歳の少年でした。恐らくハンガリー軍の実際の戦闘の指揮は、ルドルフと綿密に打ち合わせた側近の将軍たちによって行われたのでしょう。

この戦いの勝利によってルドルフはオタカルから取り上げたオーストリアとその周辺の地域を、ハプスブルク家の所領とする事に成功し、ハプスブルク家は一躍帝国有数の権門へと大きく勢力を拡大します。そしてこの時初めてハプスブルク家とオーストリアはつながりを持つ事になったのです。

ルドルフのこの勝利は、彼をドイツ王に選出した選帝侯たちをはじめ、他の帝国諸侯たちを大いに驚かせました。それだけではありません。彼らはこのルドルフという男を完全に甘く見ていました。つまり金も力もあまり無い、平凡な三流貴族に過ぎないと思っていたはずが、やがて彼らはそれが大きな間違いであった事を思い知らされます。なぜならこの「貧乏伯爵」はひとたびドイツ王となると、意外なしたたかさと巧みな政治力を発揮して王権の強化に乗り出していったからです。

それにルドルフは人間的な魅力にもあふれた人物でした。頭脳明晰で忍耐強く、人情細やかで世情に良く通じ、とても人望がありました。田舎貴族出身の彼に、帝国中の多くの諸侯が従い、先のマルヒフェルトの戦いでは3万もの軍勢がルドルフの下に集結したのも、彼の人柄に惹かれたからという諸侯も少なくなかったのです。

しかし、ルドルフが君主として優れた素質を持っているという事は、選帝侯たちをはじめ、大方の帝国諸侯にとって思いもかけない厄介な問題でした。優れた王、強大な皇帝、それは彼らが最も「望まない」ものであったからです。やがて彼らはルドルフの足を引っ張るため、あの手この手で邪魔だてを図り、ルドルフはかつての歴代皇帝たちと同じ様に、彼らとの勢力バランスと利害調整という複雑な心理的消耗戦に悩まされていく事になります。

次回に続きます。

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幻の英雄ウイリアム・テル ・ スイス独立戦争の始まり

みなさんこんにちは。

1278年のマルヒフェルトの戦いで競争相手であるボヘミア王オタカル2世を打ち破ったルドルフ1世は、その後どうしていたのでしょうか? 実は彼は戦いに勝利したからといって、すぐに強大な王権を手にしたわけではありませんでした。いやむしろこれによって彼は一層難しい帝国運営の舵取りをせざるを得ない状況になっていったといっても過言ではないでしょう。

なぜならオタカル2世を破ったとしても、帝国内には7人の選帝侯をはじめ、いつ彼に歯向かうか分からない無数の帝国諸侯たちがいたからです。そこでルドルフは実に臆病なほど慎重に事を運んで行く様になります。例えばルドルフに負けたオタカル王は戦死していましたが、彼の王家であるプシェミスル家はその幼い息子ヴァーツラフを後継者としてボヘミアに健在で、将来父の仇を打つために彼を脅かすかも知れず、そのためルドルフはボヘミア王家の力を削ぐため、本領のボヘミアと周辺の一部を除き、オタカル2世が手に入れたオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンなどを接収し、これらを全てハプスブルク家の所領としました。

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上がオタカルの子ヴァーツラフ2世です。(1271~1305)幸いヴァーツラフ2世は父の死の時は幼く、さらに彼はボヘミア王となったその後の関心を背後の隣国ポーランドやハンガリーに向けたので、ルドルフの心配は杞憂に終わりましたが、ルドルフはボヘミア王家から没収したこれらの領地をハプスブルク家領とするために帝国諸侯に慎重に根回しをし、それらの了承を得るまで4年もかかってやっとオーストリアを息子アルブレヒトらに与えています。

ともあれこれでハプスブルク家は元の領地の10倍ほどになるオーストリアを手に入れ、この時から第1次大戦の帝国崩壊までの630年以上に亘って中央ヨーロッパに君臨するオーストリア・ハプスブルク家がここに誕生したのです。

さらにルドルフは、歴代皇帝たちの失敗の原因であったイタリア政策も、その方針を転換します。その方針とは単純なもので、つまり「イタリアには手を出さない。」という事です。イタリアに目を向ければローマ教皇との対立を招く事になり、果てしない教皇との争いになります。そのためルドルフはドイツ王でありながら、1度もローマには行かず、そのため彼は教皇から戴冠していないため、正式には「神聖ローマ皇帝」にはなっていません。(これは大当たりでした。実際ルドルフの在位中、教皇は一貫してルドルフを支持し、これが帝国諸侯たちへのけん制にもなったからです。)

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上は甲冑姿のルドルフ1世です。(年号はドイツ王としての在位期間です。)ルドルフが皇帝として戴冠しなかった理由は定かではありませんが、恐らく彼は自分自身の役割を良く理解していたからではないかと思われます。つまり彼は、神聖ローマ帝国におけるドイツ王すなわち皇帝というものの存在がいかに帝国諸侯の思惑に振り回される脆弱なものであるかを身をもって経験し、ここで諸侯と対立してまで無理に王権を強化するよりも、自分の代においてはまずハプスブルク家の勢力拡大の基礎を築き、その後の事は子孫たちに委ね、「いつか栄光の日がわが家名にあらん事を。」と願ったのかも知れません。

さてその賢明なルドルフ1世が1291年に73歳で亡くなると、次の王位にはその子アルブレヒトが継承するのが当然なのですが、このアルブレヒトは父ルドルフの血を受け継いだ英邁かつ有能な君主でした。さらにルドルフが意外にしたたかに王位を維持して勢力を拡大させた事に慌てた選帝侯たちは、ハプスブルク家のこれ以上の勢力拡大を嫌い、次の王位をこれまたライン中部の辺境伯ナッサウ家の当主アドルフに与えてしまいます。

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上がナッサウ伯アドルフです。(1250~1298)彼は選帝侯の支持を得て正式に神聖ローマ皇帝として戴冠しましたが、帝国諸侯が最も嫌う皇帝権力の強化を図ったために結局廃位され、さらにその後ハプスブルク家のアルブレヒトとの戦いにも敗れて戦死してしまいました。ちなみに彼の一族ナッサウ家はその後ドイツ貴族の家系として絶える事無く続き、現在のルクセンブルク大公家は彼の子孫に当たるそうです。(下が子孫である現ルクセンブルク大公アンリ殿下です。)

さて先帝アドルフ1世の「裏切り」によって彼を廃位した選帝侯たちは、無用な混乱と争いを避けるため、結局王位をハプスブルク家のアルブレヒトに与え、彼はアルブレヒト1世として即位します。

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上がハプスブルク家2代目のドイツ王アルブレヒト1世です。(1250~1308)彼は先に述べた様に、父ルドルフに似て王としては大変有能でした。しかし彼には父ルドルフの様に他人の立場や心を汲んで事に接するという器量が欠けていた様で、父ルドルフの死後相続による一族への領地分配でトラブルとなり、甥のヨハンによって1308年に暗殺されてしまいました。

実はこのアルブレヒト1世ですが、こうした史実よりもある有名なフィクションの世界で有名です。それは19世紀ドイツの作家シラーが書いた戯曲「ウィリアム・テル」の中に登場する悪役の王のモデルなのです。

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上が戯曲「ウィリアム・テル」の作者フリードリッヒ・フォン・シラーです。(1759~1805)このウィリアム・テルの物語自体は彼の創作ではなく、スイスに古くから伝わる伝説を戯曲化したもので、弓の名手であったテルが、幼い息子の頭の上に載せた林檎を矢で射落とす場面が良く知られていますね。しかし原作はもちろんそれだけではなく、主人公ウィリアム・テルを通してスイスの独立を描いた長大なものです。またイタリアの有名な作曲家ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル 序曲」はきっと誰もが聞いた事のある勇ましい曲でしょう。

この物語は要約すると、ハプスブルク家の支配地であったスイスで、悪い王(アルブレヒト1世)から遣わされた悪い代官のゲスラー(いかにも悪者そうな名前ですね。笑)の圧政に立ち向かう弓の名手ウィリアム・テルの戦いと冒険の物語で、最後は悪代官ゲスラーと悪王アルブレヒトを倒してスイスの人々に勝利と自由をもたらすというストーリーです。

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上はスイスの各地にあるウイリアム・テルの銅像です。もちろんこの人物は実在の人物ではなく、いつしか作られていった伝説上の人物ですが、本国スイスの人々は彼の事が大好きで、今でもスイスの英雄として扱われています。

なぜアルブレヒト1世はこの物語で悪王としてその名を残す事になってしまったのでしょうか?それは彼の対スイス政策の失敗に端を発しています。元々スイスはハプスブルク家の所領だったのですが、彼の父ルドルフが王の時代までは、周辺のスイス人との関係に慎重に気を配り、ルドルフの人柄も相まってその関係も良好で上手くやっていたのです。しかしアルブレヒトが王になると、彼はスイスをハプスブルク家の完全統治下に置く事を狙い、家臣を派遣して強権統治を行う様になります。(上で悪代官とされているゲスラーという人物も、チューリッヒ方面の行政官として当時アルブレヒト王に仕えるハプスブルク家の家臣の中に実在しており、後に爵位を得ています。)

これは独立心の強いスイス人たちの怒りを買い、ハプスブルク城に近い3つの州が同盟して「反ハプスブルク」の旗を揚げ、やがてそれが拡大していく事になったのです。このスイスとハプスブルク家の戦いはやがてスイス独立戦争に発展しますが、このウィリアム・テルの物語はハプスブルク家の圧政に立ち向かったスイスの人々の誇りであり、そのために当時の王であったアルブレヒト1世が、スイス方面行政担当の家臣ゲスラーとともに「悪役」としてキャスティングされてしまったのでしょう。

次回に続きます。

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スイス農民軍の勝利 ・ ハプスブルク家の敗退と帝位喪失

みなさんこんにちは。

ルドルフ1世によってオーストリアを手に入れたハプスブルク家は、その後帝国有数の名家の仲間入りを果たしましたが、もともとの根拠地であったスイスにおいては、ルドルフの後を継いでドイツ王となったアルブレヒト1世の失政も重なり、一族は長年苦労して広げたスイスの地盤を失いつつありました。

スイスでは、前回お話した「ウィリアム・テル」の物語に代表される様にハプスブルク家への反乱が相次ぎ、これが当家の支配からの独立を目指す長い戦いに発展していきます。その最初のきっかけが、1308年のアルブレヒト1世の暗殺でしたが、彼は王妃エリザベートとの間に7男5女12人もの子に恵まれ、後の当家繁栄の原動力ともいうべき「子だくさん」でした。

ハプスブルク家の対スイス政策はアルブレヒト1世の死後、この息子たちによって続行されていくのですが、しかし彼の死によって選帝侯たちは次の国王候補からハプスブルク家を除外し、帝位はルクセンブルク伯ハインリッヒ7世に奪われてしまいました。

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上が新ドイツ王ハインリッヒ7世です。(1275~1313)彼は強い君主を出したくない選帝侯たちによって担ぎ出された地方貴族に過ぎませんでしたが、いざ王位に付くと彼らの目論見に反して王権の強化に乗り出し、家系の絶えたボヘミア王家に娘を嫁がせてボヘミア領を手に入れ、イタリアにも南下の野心を見せるなどの姿勢を見せます。しかし彼のこうした政策は選帝侯や当時フランスの影響下にあったローマ教皇の反発を買い、1313年彼は謎の急死を遂げます。(これは歴史家の間では「毒殺」が疑われていますが、真偽は定かではありません。)

帝位はめまぐるしく変わります。ハインリッヒ7世の死によって、選帝侯たちは次の国王にバイエルン公であるヴィッテルスバッハ家のルートヴィッヒ4世を推戴しますが、一方帝国のもう一つの主役ハプスブルク家では、アルブレヒト1世の死後、その子フリードリッヒ1世が「オーストリア公」としてその当主となり、弟レオポルトと協力してこれに反対し、「対立王」として立候補。ハプスブルク家による帝位奪還に動き出します。

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上が「オーストリア公」フリードリッヒ1世です。(1286~1330)彼は帝位奪還のため、ライバルのフリードリッヒ4世との戦いに突入しますが、同時にスイス政策も強行に推し進め、これがスイス人の「反ハプスブルク」の運動の火に油を注ぐ結果になってしまいます。

帝国内で権力者たちが帝位を争っていた頃、スイスではハプスブルク家への反発が日増しに増大していました。すでにフリードリッヒの父アルブレヒト1世の時代の1291年に、シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの3州の農民たちが、ハプスブルク家の支配打倒とスイス独立のため「誓約同盟」を結成してこれと戦う事を誓います。

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上がスイス独立同盟の中心であるシュヴィーツ州の現在の姿とその位置です。(人口は州全体で13万ほど。)この州の名「シュヴィーツ」が、後の同国の国名「スイス」の語源になった(らしい)と言われていますね。

スイス独立派は国王選挙にも介入し、当然バイエルン公ルートヴィッヒ4世を支持してハプスブルク家の足を引っ張ります。業を煮やしたオーストリア公フリードリッヒ1世は1313年、弟レオポルトを総司令官としておよそ9千の軍勢から成る討伐軍を差し向けました。それに対し、迎え撃つスイス農民軍はシュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの3州を合わせてもわずか1300余りに過ぎませんでした。

兵力は7対1で圧倒的にハプスブルク軍が優勢です。司令官レオポルト公は一気にスイス独立派を殲滅すべくスイス領内に侵攻しました。そして軍勢がスイス独立派の本拠地シュヴィーツ州にあるモルガルテン山の近くの狭い谷底の道に差し掛かったその時、待ち構えていたスイス農民軍が一斉に山の上から石や積んであった丸太を投げ落とし、さらに身軽な農民兵の繰り出す長槍攻撃に、重さ40キロの鋼鉄の甲冑姿の騎士たちはろくに反撃も出来ず、大混乱に陥ったハプスブルク軍は2千の戦死者を出して大敗し、司令官レオポルト公は命からがらオーストリアに撤退してしまいました。(モルガルテンの戦い)

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上がモルガルテンの戦いを描いた絵と、現在のモルガルテン山の様子です。(写真で見る限り、それほど高い山ではない様です。せいぜい標高5~600メートルほどでしょうか。のどかで美しい風景ですね。きっと戦いのあった700年前とほとんど変わっていないのだと思います。)

この勝利によってスイス独立派は勢いを増し、それまでハプスブルク家の報復を恐れて様子を見ていた他の州も次々に同盟に参加、その勢力は最初の3州から8州へ、やがて13州へと拡大していきました。(といってもこの一度の勝利でスイスの独立がなったわけではなく、長い戦いの最初の勝利に過ぎません。それにハプスブルク家もスイスの所領はその後も維持し続けました。)一方敗れたハプスブルク家は敗北が相次ぎます。長期化していた帝位争いで、当主フリードリッヒ1世が1322年のミュールドルフの戦いでバイエルン公ルートヴィッヒ4世に敗れ、味方に付いた多くの帝国諸侯らと供に捕虜になってしまったのです。

その後1325年にヴィッテルスバッハ家とハプスブルク家との間で妥協が成立し、(勝ったルートヴィッヒ側も長い帝位争いで疲弊していました。)神聖ローマ皇帝位とイタリア王位はルートヴィッヒ4世が継承し、フリードリッヒ1世はドイツ王となる事で和睦が成立しました。(彼は「ドイツ王」としてはフリードリッヒ3世となります。)

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上が新皇帝ルートヴィッヒ4世です。(1282~1347)彼の帝位確定で帝国内は束の間の安定が訪れますが、彼の死後、帝位は再び変転します。選帝侯たちは次の王としてルクセンブルク家のカール4世を選出し、この時もハプスブルク家は落選してしまいます。そしてこれ以後当家は130年以上に亘って神聖ローマ帝国の帝位候補からはずされ続け、ルドルフ1世、アルブレヒト1世と2代続いたハプスブルク家による帝位世襲は長い中断を余儀なくされます。

この時のハプスブルク家の当主はフリードリッヒ3世の弟で、オーストリア公アルブレヒト2世という人物でしたが、彼は兄たちと違って帝位奪還は事実上諦め、祖父ルドルフ1世の方針を踏襲し、長い帝位争いとスイスの反乱で傾いたハプスブルク家の力を取り戻すため、極力戦争を避けてひたすら内政に没頭し、力を蓄えようとします。

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上がオーストリア公アルブレヒト2世です。(1298~1358)彼は「賢公」とも呼ばれる名君で、父1世がスイスで失敗した教訓からオーストリアにおける内政の充実を図り、領民からも大変慕われました。彼がこの時期に基礎を固めた事で、オーストリア・ハプスブルク家はこの地に深く根付く事が出来たのです。

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そして上がこの時期の神聖ローマ帝国の領域図です。3つの色で表されているのはこの時期に帝位を争った各家の領地で、オレンジ色がハプスブルク家領、紫色がルクセンブルク家領、緑色がヴィッテルスバッハ家領になります。各家の領地が「飛び地」の様に散らばっているのは、当時諸侯の間で盛んに行われた政略結婚による結果です。

次回に続きます。

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金印勅書 ・ 権力を売った文人皇帝カール4世

みなさんこんにちは。

ハプスブルク家がスイスの民衆と長い戦いを繰り広げ、苦戦を強いられていた頃、神聖ローマ帝国の皇帝はそのハプスブルク家の当主ではなく、ルクセンブルク家の当主カール4世という人物でした。

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上が当時の神聖ローマ皇帝カール4世です。(1316~1378)彼は先に述べた通り、現在のルクセンブルク大公国のある一帯を所領としていた地方貴族ルクセンブルク家出身の皇帝で、「強大ではない」ゆえに選帝侯たちから選出された典型でした。

しかしこの皇帝は、この神聖ローマ帝国という愛すべき国家(あくまで自分が個人的に好きなだけです。笑)の歴史において、ターニングポイントともいうべき重要な役割を果たした事で、忘れるべからざる人物でもあります。ここでその事についてお話して置きたいと思います。

カール4世は1316年、ボヘミア王国(現チェコ共和国)の首都プラハで当時のボヘミア王であったヨハン・フォン・ルクセンブルクとボヘミア王女エリシュカの長男として生まれました。本来ネーデルラントの南を所領とするルクセンブルク家とボヘミアとはなんらつながりは無いのですが、彼の祖父に当たる神聖ローマ皇帝ハインリッヒ7世が、将来のボヘミア王家の断絶を見越して娘をボヘミア王家に嫁がせ、事実上ボヘミアを乗っ取った事から当家によるボヘミア支配が始まったのです。

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上は当時のボヘミア王国の領域です。

彼はその後3歳にして親元を引き離され、さらに7歳から14歳まで叔母マリー・ド・リュクサンブールの嫁ぎ先であるフランス王家に預けられてそこで養育されました。彼は生まれた時は叔父や外祖父の名である「ヴァーツラフ」と名づけられましたが、このフランス滞在時代に叔母の夫で、育ての父であった当時のフランス王シャルル4世の名を取って「シャルル」(ドイツ語でカール、チェコ語でカレル)と改名しています。

シャルル4世夫妻はカールを大切に養育し、手厚い高等教育と帝王学を身に付けさせ、カールは繊細で教養高い若者に成長しましたが、これが後に彼が神聖ローマ皇帝となった時に大きく役立ち、彼は育ての父シャルル4世に対して終生感謝していたそうです。

時は流れて1333年、17歳になった彼はボヘミアに帰国し、父ヨハンと再会して直に帝王学と統治を学び、さらに晩年失明した父に代わって1340年には摂政としてほぼ事実上ボヘミアの王となります。そしてその後の帝国内の帝位争いの最中、時のローマ教皇らの介入と選帝侯らの思惑によって、1347年ドイツ王に選出されました。

1355年にカール4世は恒例のイタリア遠征を行い、ローマで教皇から神聖ローマ皇帝として戴冠しましたが、その帰り道の北イタリアにおいて、彼はこの辺り一帯の都市群に貨幣の鋳造、関税の徴収といった本来なら皇帝の持つ特権を次々に与え、その見返りにこれらの都市から莫大な上納金を納めさせる事に成功します。(つまり特権を切り売りしたのです。この大金は、後に彼の統治資金として大いに役立った様です。)

カール4世が歴代の神聖ローマ皇帝たちと違う点は、母親の血を受け継いで半分チェコ人であったという事です。彼は片時もそれを忘れず、そのため彼の在位中、帝国の都はボヘミアの首都プラハに置かれ、ヨーロッパ中から富の集まる文化の薫り高い都となりました。

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上はボヘミアの首都プラハの現在の街並みです。(人口約120万)遠方に見える巨大かつ壮麗な宮殿は街を見下ろすプラハ城です。ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココといった各時代の建築様式で建て増しされているのがお分かり頂けると思います。

高い教養の持ち主であったカール4世は、この都においてドイツ語圏で初めての大学(カレル大学)を造ってプラハを学問の都とし、プラハの中央を流れるモルダウ川にはこれもプラハで初めての頑丈な石造りの橋(カレル橋)を築いて交通の利便を図ると同時に不必要なまでの彫刻で飾り立てるなど、他にも数々のいわゆる「公共事業」によってプラハを皇帝の都にふさわしい街に造り替えていきます。(この時に、皇帝が恥もいとわずに北イタリア都市から得た大金が大いに役立ちました。)

こうしてプラハには多くの知識人や文化人が集まり、彼らによって知識と文化の素養が蓄えられ、さらにプラハに行けば「仕事がある」事から帝国内外から集まった人々によって人口も増え、その人々を目当てに物を売る商人たちが財を成し、その徴税でカール4世の宮廷にはうなるほど金が貯まっていきました。

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上はプラハ郊外にある皇帝カール4世の建てた「カレルシュテイン城」です。このお城は王家の財宝を保管するために築城されたもので、その堅牢さと優美な外観が人気で訪れる観光客が後を絶ちません。さらにカール4世は自己宣伝にも余念がなかった様で、彼の造ったものにはほとんど自身の名「カレル」と名付けています。

さて、ここまで話すとこのカール4世という皇帝は大変有能な君主である事が分かりますが、本来神聖ローマ帝国の皇帝を選出する選帝侯たちはこの様な人物を望まないはずです。彼らにとって皇帝とは、自分たちの利益の為に動く何の力も無い「飾り物」であれば十分であり、皇帝が彼らの既得権益に手を出せば直ちに「廃位」してしまうからです。しかしカール4世は亡くなるまで皇帝として30年以上も君臨し続けました。ではどうやって彼は選帝侯たちを手なずけたのでしょうか?

そこで登場するのが「金印勅書」です。これは簡単に言えば、神聖ローマ帝国皇帝を選出する場合の選挙基準と、その皇帝の選出権を持つ7人の選帝侯たちの帝国内における権利と身分を明文化した全31か条に及ぶもので、下の様な皇帝の黄金の印が押された事からこの名があります。

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上が神聖ローマ皇帝の金印、つまり玉璽、ハンコです。(わが国の天皇陛下が公文書に目を通され、ご署名された後に押される玉璽も黄金製で3.5kgもある巨大なものですね。)

この金印勅書の主な内容は

1 選帝侯はマインツ、トリーア、ケルンの三大司教と、ザクセン公、ボヘミア王、ブランデンブルク伯、プファルツ伯の7人とする事。

1 選帝侯は帝国諸侯の最上位を占め、領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権などを持つ事。

1 皇帝選出の選挙結果はローマ教皇の承認を必要としない事。

1 皇帝選出は単純過半数で行い、その結果に従わない選帝侯は選帝侯位を剥奪される事。

1 帝国諸侯間の同盟と都市の同盟を禁止する事。

1 選出されたドイツ王はその時点で自動的に神聖ローマ皇帝となる事。


その他となっており、特にローマ教皇の介入を阻止した条項と、選挙結果に従わない者は選帝侯の位を失うという条項が功を奏し、それまで散々繰り返されてきたこれらの者の都合によって別の王を立てるいわゆる「対立王」は不可能となり、カール4世以後、帝国はその滅亡まで一人の皇帝が立つことになります。(それが当たり前なんですけどね。笑)

カール4世がこれほどまでに選帝侯たちに有利な条件を定めたのには理由があります。つまりこれだけの特権を与えてやるのだから、彼の王家ルクセンブルク家を神聖ローマ帝国の「世襲の王家」として認めよというわけです。皇帝といってもどうせ選帝侯はじめ帝国諸侯を従える力などありません。それはこれまでの皇帝たちを見れば分かる事です。しかしそんな皇帝にもたった一つですが、何にも代え難い強力な「武器」がありました。それは神聖ローマ皇帝としての「権威」です。

この皇帝の権威というものは、人々の精神に絶大な影響力を持っていました。人々を支配する力は、軍事力や財力といった物理的なものだけではありません。人を精神面で支配する権威も必要です。そしてこの権威の力こそ、皇帝カール4世が目を付けた力の源でした。彼は自らの王家ルクセンブルク家を、他の諸侯とは違う地上で最も格式の高い永遠不滅の権威を持つ世襲の皇帝家にする事を望んだのです。そのためにこの金印勅書は必要不可欠な「道具」でした。

次回に続きます。

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