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ローマへの道 ・ 夢に終わったイタリア征服

みなさんこんにちは。

「串刺し公」として恐れられたワラキア公ヴラド3世に勝利したオスマン帝国皇帝メフメト2世は、1462年にワラキア(現ルーマニア)を属国とすると、バルカン半島のほぼ全域を支配下に収めました。この時点で彼は、セルビア、ブルガリア、ワラキア、ボスニアを従え、これまでそれらの小国を背後から操り、オスマン帝国と戦わせていた北の強国ハンガリー王国も、メフメト2世の巧みな戦略により本国の防衛に集中するのが精一杯で、もはやこの地域でオスマン帝国に敵対する有力な勢力はほとんど排除されていました。

メフメト2世が、次の征服先をヨーロッパ方面とアジア方面の2方面に分けていた事は前回お話しましたが、その第一段階としてのバルカン半島支配がほぼ達成出来た事により、彼はこれを転換点として作戦の第二段階に入ります。それはアジア方面に軍を差し向け、これを機に背後の敵対諸国を完全に制圧してしまおうというものです。

当時オスマン帝国のアジア方面には、帝国の発祥地であるアナトリアに、オスマン帝国建国以来の古くからのライバル国であったカラマン君候国が今だ健在で、その先のイラン、イラク地域にはこれを支援する大国「白羊朝」が、隙あらばオスマン領に侵攻すべく虎視耽々と狙っていました。


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上がその「白羊朝」の勢力範囲です。(1460年頃)隣に現在のアフガニスタンを中心としてティムール朝がありますが、ティムールの子孫たちはそれぞれに独自の王国を打ち建てて次第に自滅してゆき、この時期は規模が大きく縮小していました。

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この白羊朝の最盛期を築いた王が、上に載せたウズン・ハサン(1423~1478)という人物で、この王との対決が、遠征の第二段階における最大の目的でした。

また現在のシリアからエジプトにかけては、マムルーク朝エジプト王国というこれも強大な大国があり、紅海経由で運ばれるインドからの香辛料貿易から上がる莫大な収入を背景に、常に相争うイスラム世界の国々とは一線を画した繁栄を続けていました。


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上がそのマムルーク朝エジプト王国の勢力範囲です。この王朝は別名「奴隷軍人王朝」と呼ばれ、もともとは先代王朝であったアイユーブ朝において、戦時に死んでも困らない奴隷たちを兵士として組織された軍団が、その武力を背景にして1250年にアイユーブ王家を簒奪して(つまり乗っ取って)築いたとてもユニークな王朝です。この王国はイスラムの聖地メッカをその支配下に置き、先に述べた香辛料貿易で巨万の富を得ていました。

これらの敵のうち、メフメト2世がまず狙ったのは最も勢力の小さいカラマン君候国でした。白羊朝とマムルーク朝のどちらに侵攻するにも、その通り道にあるカラマンを征服しなくてはその先には進めないからです。彼はこの国の最終的併合を目指して1466年にカラマンに攻め入り、同年中に首都コンヤを攻め落とし、カラマン君候国を完全に滅亡させます。

これに怒ったのが白羊朝のウズン・ハサンです。彼は対オスマンの「道具」として支援していたカラマン君候国が敗れ、その領土がオスマン帝国に奪われた事に危機感を覚え、新たな作戦を考える必要に迫られます。そこで彼が思いついたのが、東地中海においてオスマン帝国と利害が衝突していたイタリア最大の海洋都市国家ヴェネツィア共和国との同盟です。

ウズン・ハサンは強力な海軍を持つヴェネツィアと同盟する事で、オスマン帝国を挟み撃ちにしようとしたのです。ウズン・ハサンが最も欲しがったのは当時最新の西欧の大砲でした。そこで彼は1472年、ヴェネツィアに大量の大砲の発注を依頼します。しかし、彼のこの企みは、すでにメフメト2世に見抜かれていました。メフメト2世は先手を打って艦隊に命じ、白羊朝に大砲や弾薬を供給するヴェネツィア船舶を徹底的に拿捕してしまい、その結果ウズン・ハサンは不十分な軍備でオスマン軍と戦う事を余儀なくされてしまいます。

1473年、オスマン軍と白羊朝軍はアナトリア東部で大規模な会戦に踏み切ります。しかし剣と弓槍の歩兵や騎兵中心の白羊朝軍に対し、オスマン軍は鉄砲隊と大砲を駆使した「機械化部隊」による圧倒的な火力にものをいわせて圧勝し、ウズン・ハサンは敗れてしまいました。(その後、メフメト2世とウズン・ハサンとの間で講和条約が結ばれ、両国はユーフラテス川を国境線とする事で停戦します。)

この戦いの敗北によってウズン・ハサンは大きく権威を失墜してしまい、今まで彼に力で従わされていた各勢力が一斉に反乱の火の手を上げ、それどころか身内の王族までこれに加担して彼を悩ませます。そして1478年にウズン・ハサンが亡くなると、彼の王子たちは王位をめぐってたちまち内戦をはじめ、白羊朝は成立から100年余りで崩壊していきました。

こうして白羊朝に大打撃を与え、当分の間彼らのオスマン帝国への軍事行動を封じ込めたメフメト2世は、次の目標を黒海に向けました。目的は黒海とその沿岸でしか手に入らない豊かな産物を手に入れる事と、これらをヨーロッパ諸国に売りさばくための交易ルートの確保でした。


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上の図はメフメト2世が即位した当時のオスマン帝国の領土です。この時すでに帝国は黒海の半分を手に入れていましたが、メフメト2世はこの海を完全に我がものとする事を狙いました。(ちなみにこの「黒海」という名の由来は、海水の成分に鉄分が多い理由から、海水が独特の「黒み」をおびているからだそうです。)ここで黒海の産物の代表的なものを下にご紹介しましょう。

キャビア(ロシア産ベルーガ)

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黒海といえば、なんといっても1枚目の「キャビア」が有名ですね。チョウザメという魚の卵であるというのは、一般知識としてご存知の方も多いと思います。ちなみに自分も人生で一度だけこれを食べた事があります。といっても自分で買ったわけではなく、10年ほど前に自分の少年時代からの古い友人で商社勤務の者が、この地域に海外出張するというので、「買って来てくれ。」と冗談に言ったら、本当にお土産に買って来てくれたのです。値段はジャムのビンくらいの大きさで、日本円で1万円ほどだったとか。おかげでこちらも見栄を張ってしまい、彼に寿司とうなぎをおごる羽目になりましたが・・・(笑)

さてそのお味は? というと、はっきりいって「少し小粒の黒いイクラ」と言いましょうか、食感はそんな感じで大差はありませんでした。おいしいかどうかは食べ方や人によると思いますが、個人的には「1度食べたら十分かな。」と思いました。ただ普通の赤いイクラよりもかなりしょっぱいので、食後に喉が渇きます。

2枚目はクロテンの毛皮です。クロテンとはイタチの仲間で、その手触りの良い美しい毛並みは高級毛皮のなかでも最高級品といわれています。わが国でも平安時代には、かつて中国東北部にあった渤海から朝廷に献上されていたものです。高級毛皮といえば、同じくイタチの仲間で「ミンク」の毛皮が有名ですが、こちらはほぼ世界中に生息していて数が多く、価格はクロテンよりも安いそうです。これは良質なクロテンがロシアなどに生息が限定されており、その希少性の差が価格に表れている様です。

3枚目は小麦です。特に黒海北部に広がるウクライナの大穀倉地帯は温暖な気候と肥沃な大地に恵まれ、遊牧騎馬民族出身で、農耕によって食糧を得る事を知らないトルコ民族の築いたオスマン帝国にとって安定的な食糧供給先として、とりわけその地で栽培される大量の小麦は、日々の糧として欠かせないパンを得るためになんとしても手に入れなければならないものでした。

黒海を征服すれば、先に述べた黒海の産物のうち、この付近でしか手に入らない希少なものが、帝都イスタンブールを経由して帝国とヨーロッパ諸国に流通させることが出来、インドからの香辛料貿易を独占するマムルーク朝エジプト王国に十分対抗できる財源を得られるのです。

メフメト2世はこの黒海の完全征服を目指し、1475年に対岸にあるチンギスハンのモンゴル帝国の子孫にあたり、王位争いの渦中にあったクリム汗国に遠征軍を差し向け、同年にこれを服属させる事に成功します。


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上がメフメト2世が亡くなる直前のオスマン帝国の領土です。クリム汗国を属国(事実上征服)とした事で、黒海沿岸も一部を除いてオスマン帝国のものとなりました。

さて、ここまで来れば、黒海をほぼ制圧したメフメト2世が次に狙うのは、当然残る最後の大国マムルーク朝エジプト王国と思われるでしょうが、実際は彼はマムルーク朝とは1度も交戦せず、その在位中エジプトに遠征する事はありませんでした。その理由は定かではありませんが、おそらく隣国白羊朝との挟み撃ちに遭うのを避けたのではないかと思われます。

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そんな彼は、実は意外な方面に次の征服先を考えていました。それはなんとイタリア半島です。もともとメフメト2世は少年時代から、オスマン帝国の歴代皇帝の中で最もヨーロッパ文明と芸術に強い興味と関心を持った人物であり、上に載せた画像の様に、自分の肖像画をわざわざイタリアの画家ベッリーニを大変な報酬で呼び寄せて描かせたほどのヨーロッパファンでした。

折りしも当時イタリアは、都市国家フィレンツェの支配者として君臨していた大富豪メディチ家の下で、「ルネサンス」の絶頂期であり、メディチ家の庇護を受けた多くの芸術家たちによって、絵画、彫刻、建築などの数多くの傑作が生み出され、イタリア中にそれが波及していた真っ最中でした。かねてからこれらにとても興味を抱いていたメフメト2世が「イタリア半島征服」の夢を抱くのは自然の成り行きであった事でしょう。

彼は1480年8月、信頼する家臣の一人ゲディク・パシャをイタリア派遣軍司令官に任命し、およそ2万からなる軍勢をイタリア半島南部に差し向けました。オスマン軍司令官ゲディク・パシャは100隻を越える大艦隊でイタリア南部の都市、オトラントに上陸すると、市内に立てこもるナポリ王国のわずかな守備隊と市民からなる防衛軍をあっけなく壊滅させてこれを占領してしまいます。


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上がオトラントの位置と、その街並みです。(人口は5600人ほどですが、エメラルドグリーンの美しい海と白壁の街並みが魅力のリゾート地です。)しかし、かつてこの美しい街で、侵攻したオスマン軍によって徹底した略奪が行われ、およそ2万の市民のうち、1万2千が無残に虐殺されたそうです。

当時このイタリア南部にはナポリ王国がありましたが、ゲディク・パシャ率いるオスマン軍はこのオトラントだけではなく、周辺の都市も次々に攻撃し、恐怖に駆られた当時のナポリ王フェルディナンド1世は各国に救援を要請、事態を深く憂慮した時のローマ教皇シクストゥス4世の呼びかけで、ナポリ王の王子アルフォンソを司令官とする対オスマン十字軍が結成されます。

一方帝都イスタンブールでイタリア遠征が順調に進んでいた事に満足したメフメト2世は、いよいよ本腰を入れてイタリアの征服に取り掛かるべく、皇帝直属の精鋭部隊イェニチェリを主力とする大軍に動員令を発し、自ら指揮を取って出陣の準備に入りました。

メフメト2世にとって、オトラントなどの様な地方都市などどうでも良いのです。彼が目指していたのはローマ、すなわち古のローマ帝国の都で、現在はキリスト教世界の中心であるローマでした。このローマを征服し、ローマ教皇を捕えて教皇庁を滅ぼしてしまえば、その衝撃はヨーロッパ世界に計り知れない精神的打撃を与える事が出来、また同時に預言者ムハンマドがイスラム教を開いて以来、イスラム世界で未だに誰も成し得た事のない、「イスラムによるヨーロッパ征服」という偉業達成に大きく近づく事が出来るからです。

そしてイスラムによってヨーロッパが征服され、イスラム教を全ての価値観の中心に置き、先の優れたヨーロッパ文明と芸術をイスラム文明と融合させる事により、彼の理想とする真の世界帝国をこの世に実現させる事が彼の夢でした。

しかしアッラーの神はこの皇帝にその実現を許さなかった様です。なぜならすでに病身であったメフメト2世は病を押して夢の実現に向けて動き出した矢先、無理が祟って急死してしまったからです。享年49歳の決して長くない生涯でした。

メフメト2世の急死によって、もともとオスマン宮廷内でも、影で「スルタンの無謀な冒険」の感が強かったイタリア遠征は直ちに中止され、イタリア駐留のオスマン軍はわずかな守備隊を残して本国に撤退します。これを好機と見たヨーロッパ連合軍は反撃に転じ、残っていたわずか1300余りのオスマン軍守備隊を全滅させてオトラントを奪還し、イタリア半島からオスマン軍を一掃する事に成功しました。

少年時代に抱いたヨーロッパ世界への強い憧れ、そのヨーロッパをも組み込んだ帝国の建設のため、ローマへの道に足を進めようとしたメフメト2世のイタリア征服作戦は、こうして「夢」のまま未完に終わったのです。そしてこれ以後、オスマン帝国では歴代皇帝の誰一人として、ヨーロッパ文明に目を向ける者は無く、彼らの目はあくまで「イスラム世界」というきわめて限定されたものに主眼を置く、いささか視野の狭い地域的なレベルに硬直化する事になっていきました。

次回に続きます。

帝国を継ぐ者 ・ 黄金の玉座 を奪い取れ!

みなさんこんにちは。

1481年5月、それまでギリシャとアナトリアにまたがる程度の地域的な一国家に過ぎなかったオスマン帝国を、北はバルカン半島全域から黒海、南はイラクのユーフラテス川付近に至る広大な領域国家へと拡大させ、人々から「征服王」と呼ばれたオスマン帝国7代皇帝メフメト2世は、病身の身を省みずに無理を承知で興したイタリア遠征の途上、49歳の若さで急死してしまいました。

彼の死により、オスマン帝国では帝位継承の恒例ともいうべき、オスマン家一族による熾烈な帝位争奪戦が展開されていく事になります。今回はそのあたりのお話です。

先帝メフメト2世には、上から順にバヤジット、ムスタファ、ジェムという3人の皇子たちがいましたが、次男のムスタファは1474年に何者かに暗殺されていたため、オスマン帝国の次の支配者となる後継者候補は残る2人、バヤジットとジェムのどちらかで、この時2人の兄弟はどちらも帝都にはおらず、それぞれ地方の知事として任地に赴任していました。

ここで疑問に思うのは、普通に考えれば長男が後継者となるのが順当ではないか? という点ですが、このオスマン帝国においては、帝位継承に当たって兄弟間の順位は不定でした。それならば父親である先帝が在位中に、長子相続とかを法で定めてしまえば良かろうと思考が進むのですが、それもこのオスマン帝国という国家には通用しない論理でした。なぜならこのオスマン帝国は「皇帝以外は全てが奴隷の国」とヨーロッパ諸国から揶揄されるほどの専制君主国家であり、帝国の全権は皇帝のみにあるため、例えば先代の皇帝が定めた法なども、代替わりで新しく即位した皇帝は、それが自分の意に沿わなければ簡単に廃止なり変更なり出来てしまうからです。

そのためオスマン帝国(というよりオスマン家)では、帝位継承において真っ先に宮殿に入り、皇帝の黄金の玉座について宮廷をおさえ、群臣から臣従の誓いを受けた者が皇帝となる事が出来、それに敗れた者は皇帝を脅かす存在として処刑されるのが、およそ100年前の4代皇帝バヤジット1世以来の帝国の慣例として定着していました。


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上は現在トルコのイスタンブールにあるトプカプ宮殿の宝物館に展示されているかつてのオスマン帝国皇帝の玉座です。この玉座はなんと8万枚もの金貨を溶かして造り、さらに玉座の表面に鋲の様にある突起の部分には、1000個以上のエメラルドがはめ込まれているそうです。(驚)この黄金の玉座をめぐり、かつて歴代のオスマン皇帝家一族は血まみれの帝位争いを繰り広げたのです。

ちなみに、わが国の元首にあらせられる天皇陛下が国会の開会式にご臨席の際にお座りになられる玉座も、下に載せた様に美しくも重厚な彫刻に分厚い金箔を施し、戦前の日本工芸の粋を極めて作られた豪華なものですね。天皇家の菊のご紋章が、わが国の真の統治者がどなたであるかを良く表しています。

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上が参議院にて玉座にお座りになられている今上天皇陛下のお姿です。(これは自分の勝手な理想なのですが、ぜひ陛下には大礼服に頸飾と勲章をお付けいただき、首相以下大臣級をはじめ、議員の皆さんも陛下より授与された勲章をお持ちの方はそれを身に付けて参列してもらいたいものです。)

さて、オスマン家のそうした事情と並行して、皇帝を支える宮廷や政府内でも、多くの人々が選択の必要に迫られていました。2人の皇子のうち、どちらの味方に付くべきか、いやどちらを擁立すれば、自分たちに有利になるのか? といった思惑が複雑に絡み合っていたからです。メフメト2世の死を真っ先に知ったのは当然これらの宮廷や中央政府の人々で、彼らは一刻も早くこの知らせを自分たちが擁立すべきと考えたそれぞれの皇子の元へ送る必要がありました。


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上がメフメト2世の長子バヤジットです。(1447~1512)彼は長男でありながら、若い頃は年齢的な未熟もあって遊びにうつつを抜かし、父メフメト2世の不興を買っていた様です。しかし年齢を経て成熟するに連れ、やがて父帝を凌ぐほどの敬虔なイスラム教徒となります。そんな彼の下には、イスラム宗教界から多くの支持者が集まり、さらにペルシア人、ユダヤ人、イタリア人などの異民族を好んで重用した先帝メフメト2世の独裁的な帝国運営に対して不満を抱くトルコ人グループもバヤジット側に付いていました。つまり帝国内の多数派を抑えていたのです。これが後に彼に幸運をもたらす事になります。

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上がバヤジットの末弟ジェムです。(1459~1495)彼は兄より12歳も歳が離れていましたが、才気煥発で詩人として名高く、それゆえ兄弟たちのうち、文化や芸術を愛した父メフメト2世に最も可愛がられていたそうです。そのため特に先帝メフメトの傍で、実際に政治を行っていた大宰相カラマーニ・パシャらの政府中央グループは、このジェムを次の皇帝に擁立すべく画策していました。つまり簡単にいえば、先帝メフメト2世に対して同調していた人々がジェムの支持に回り、逆に批判的な人々がバヤジット派を形成していたのです。しかしジェムにとっての不運は、彼の支持者が帝国内で少数派であった事でした。

そこへ思わぬハプニングが起こります。ジェムの元へ先帝崩御の知らせを伝える使いが、バヤジット派によって足止めを食らい、ジェムに父の崩御を知らせるのが、バヤジットより4日も遅れてしまったのです。このたった4日間が、両者の運命を決定してしまいました。

最終的にこの帝位継承レースは、皇帝の親衛隊で、オスマン帝国軍の中核であるイェニチェリ軍団が「数は力」と判断し、早々に多数派のバヤジットの味方に付いた事からバヤジットの勝利に終わります。イェニチェリ軍団は、なんと先帝メフメト2世崩御の翌日に帝都イスタンブールでクーデターを起こし、ジェム派の頭目であった大宰相カラマーニ・パシャを暗殺、彼に連なるジェム派の要人たちも次々に捕えられ、帝国の実権はバヤジットの手に落ちる事になったのです。

このイェニチェリ軍団については、元キリスト教徒の少年奴隷たちをイスラム教徒に改宗させた、オスマン皇帝に絶対忠誠を誓う直属の親衛隊であるという事は以前にもお話しましたが、この頃からイェニチェリ軍団の中で、そうした本来の存在意義とは別の軍団独自の思惑が芽生えていました。つまり彼らイェニチェリ軍団にとって都合の良い人物を皇帝に据えれば、イェニチェリたちはその武力で皇帝を意のままに操って帝国を動かす実権を握る事が出来るからです。そしてこれ以後、イェニチェリ軍団は皇帝直属の親衛隊という本来の役目を逸脱し、その権威と武力を背景に、帝国の既得権益を握る集団へと異質に変貌していくのです。

ともあれ、こうしてバヤジットは弟ジェムに先んじて帝都イスタンブールに入り、トプカプ宮殿にて正式にオスマン帝国8代皇帝バヤジット2世として即位しました。しかし、当然これに収まらないのが敗れた弟のジェムの方です。(収まるはずがありませんね。先に述べた様に、帝位に就けなかった者は処刑されてしまうのですから。)

ジェムはイスタンブール入りで兄バヤジットに先を越された事を悟ると直ちに引き返し、自分の支持者を主力とする4千の兵力でオスマン帝国の最初の都であったブルサを占領、ここに立てこもり、兄帝バヤジットに対し、帝国を分割支配する案を提案します。その提案とは以下の様なものです。

・バヤジットはヨーロッパ側の皇帝となる。
・ジェムはアジア側の皇帝となる。

しかし、これを聞いた兄バヤジット2世は激怒し、これを拒絶して6月に入り、自ら大軍を率いてジェムの立てこもるブルサを攻撃します。5千に満たないジェムの軍勢はあっさり敗れ、彼は家族を引き連れて南の大国マムルーク朝エジプト王国を頼って亡命する事を余儀なくされてしまいました。

さて、ここからジェム殿下の流浪の人生が始まります。彼はマムルーク朝の力を借りてほぼ1年後の1482年5月にアナトリアに再侵攻、一時はアンカラまで進撃するほどの勢いでしたが、再びオスマン軍に敗れてしまいます。それどころか、兄バヤジットがエジプトへの陸路を封鎖したため、エジプトに戻れなくなってしまいました。

そこで彼はヨーロッパで再起を図るべく、当時エーゲ海に対イスラム十字軍の最前線部隊として駐留していた聖ヨハネ騎士団に身を寄せ、彼らの本拠地ロードス島に渡ります。


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上がロードス島の位置と、現在の島の様子です。(これも分かりにくくてすみません。右下の赤い範囲で示された付近が、当時この島を拠点としていた聖ヨハネ騎士団の勢力図です。)

ジェムはその後、騎士団の手引きではるか遠く離れたフランスに渡り、さらに今度はイタリアのローマ教皇国に送られます。この彼の旅路は、純粋に自らの復権を願っての事でしたが、しかし実際にはすでにヨーロッパ諸国にとって巨大な敵となっていたオスマン帝国に対する「駆け引きの道具」として利用されるために送られたのでした。(フランスもローマ教皇も、本気でジェムに協力する気など毛頭無く、トルコ本国のバヤジット2世に対して、彼をこちらに留め置く代わりに多額の身代金を要求し、その方が無用な混乱を引き起こさずに済むと踏んだバヤジット2世はそれを受け入れ、毎年ローマ教皇に大金を払っていた様です。つまり教皇らは裏で「ぼろ儲け」していたのです。)

結局ジェムの帝国復権の望みが叶う事は無く、彼は1495年、トルコから遠く離れたイタリアの地で36年の波乱の生涯を閉じます。

一方、弟との帝位争いに勝利し、彼を排除してオスマン帝国の新たな支配者となっていた兄バヤジット2世には、その後弟ジェムとはまた違った数奇な人生が待ち受けていました。バヤジット2世は皇帝となると、父メフメト2世とはあらゆる面で対照的なやり方で帝国を運営して行きます。彼は即位からその崩御まで、およそ33年というオスマン帝国歴代皇帝でもかなり長い在位を誇りますが、その彼の長期政権を支えた最大の要因は、父と違ってほとんど外征をしなかったという点にあります。

これには理由があります。といってもそれは非常に単純で、簡単にいえば「あまりお金が無かった。」という事です。彼の父メフメト2世は冒頭で述べた様に、皆から「征服王」と呼ばれるほどの戦好きで、その野望は飽く事を知らず、イタリア征服まで実行しようとしていた事は前回もお話しましたが、戦争にはとにかくお金がかかります。先帝メフメトは外征に湯水の様に大金を投じ、これらを捻出するために、従えた国々に盛んに多額の上納金を課し、足りなければ帝国全土に新たな税をかけていました。

「新たな征服地を得れば、金などいくらでも後から入って来る。」

先帝メフメト2世はこうした「血の投資」とでも言うべきやり方で帝国を拡大させていったのですが、その「投資」が帝国に富をもたらしていくには時間がかかります。そのためバヤジット2世が帝位を継いだ時のオスマン帝国は意外にも財政が決して豊かではなく、皇帝の親衛隊であったイェニチェリ軍団がメフメトの死によってクーデターを起こし、先帝の大宰相を暗殺したのも、先帝の晩年には彼らへの給料の支払いが滞る事が多くなり、財政を任されていた大宰相を憎んでいたからです。そこで新帝バヤジット2世は早急に財政を立て直す必要に迫られます。

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上はイスタンブールで観光用に再現されているオスマン皇帝の親衛隊イェニチェリ軍団です。

その一番の近道が外征を極力しない事で余計な軍事費を削減し、イェニチェリを中心とする帝国軍将兵たちへの給料の支払いだけは完全に出来る様にする事でした。(そうでなければまたクーデターを起こされてしまいますからね。)しかし、彼も全く戦をしなかったわけではありません。1492年に黒海沿岸のモルダヴィアに兵を差し向けてこれを属国とし、さらに北のハンガリーや南のマムルーク朝とも何度も交戦しています。しかしモルダヴィア併合を除いては、そのほとんどが国境付近の局地的な防衛戦に過ぎませんでした。

こうして帝国軍部を手なずけた彼でしたが、それだけでは父の負債ともいうべき帝国内の不満を解消出来ませんでした。その帝国内の不満とは先帝が新たに国民に課した外征のための新税です。外征をしないと決めた以上もうこれは必要ありませんし、軍部だけ優遇しては、国民の不満が皇帝に向けられてしまい、反乱を誘発しかねません。そこで彼はこの税を廃止していわゆる「減税」を行い、国民の不満をそらす事にも成功します。

他にも彼は父とは正反対の政策を実行しています。彼が父メフメトよりも敬虔なイスラム教徒である事はすでに述べましたが、そのイスラム教の教えでは偶像崇拝を固く禁じています。そのため彼は父が買い集めたヨーロッパの絵画や彫刻のコレクションを全て売却して国庫の足しにし、トプカプ宮殿から撤去してしまいます。そして新たに宮殿やモスクをイスラム美術で覆い、また父が外国人を重用しすぎた事へのトルコ人の不満も配慮し、一定のトルコ人も宮廷と中央政府に置いてこれらの勢力のバランスを取り、さらに学問を手厚く保護して多くのイスラム学者の養成に力を尽くすなど、彼が理想とする本来のイスラム文明に立ち返った帝国を造ろうと、政治、文化面での大きなゆり戻しを推進していきました。

バヤジット2世の治世は父メフメト2世の時代の反動で、オスマン帝国が積極的な対外行動を起こさなかった事から、いわゆる帝国発展の停滞期とされ、その時期の皇帝であった彼は、トルコ本国でもあまり評価されてはいませんが、「やりたい放題」であった先帝によって傾いた国家財政の建て直しのために支出を減らし、父の時代に拡大した領土の基盤固めを主な施策とするなど、とても現実主義でかなり有能な君主であったと思います。(実際彼は33年も長期在位しています。無能な君主ならこれほどの長期政権は無理でしょう。)

こうして地味ではあるが堅実なバヤジット2世の政策により、オスマン帝国の国力は彼の時代にさらに強固なものになり、そしてそれは次の世代の帝国の更なる拡大の大きな原動力となっていくのです。

次回に続きます。

ピラミッドを我が手に ・ エジプト征服作戦

みなさんこんにちは。

オスマン帝国が、8代皇帝バヤジット2世の統治下で対外進出の手を一旦休め、急速に拡大しすぎた領土の基盤整備と国力の回復、とりわけ国家財政の建て直しに注力していた西暦1500年前後、そのオスマン帝国の東の隣国イランにおいて、その後彼らの背後を長く脅かす存在となる、新たな新興国が誕生していました。1501年に成立したサファヴィー朝ペルシア王国です。

それだけであれば、特にこれまでのオスマン帝国を取り囲む状況と何ら変わりはなかろうと思われがちなのですが、このサファヴィー朝がオスマン帝国を(深く)悩ませる存在となるのは、その軍事的脅威よりも、彼らオスマン帝国をはじめとする中近東の人々が信仰するイスラム教において、その大多数を占めるほとんどの人が「スンナ派」と呼ばれる宗派であるのに対し、この王朝が宗派の異なる少数派「シーア派」の国家であったからです。


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上がペルシア(現在のイラン)とその周辺に勃興したサファヴィー朝の領域図と、建国者である初代国王シャー・イスマイール1世です。(1487~1524) 

このサファヴィー朝というのは、元々はイスラム教の一教団に過ぎなかったものが次第に力を付けて強大な軍事集団となり、その教団の当主の一族であったイスマイールが、それまでこの付近を支配していたティムール朝末期の混乱に乗じてクーデターを起こし、シャー・イスマイール1世として即位して自らの王朝を開いたものです。(ちなみにイランでは、王の事を「シャー」と呼んでいます。)

このイスマイール1世という王が、他のどの王侯よりも凄いのは、なんと14歳の若さにして王朝を樹立した事です。(いくら強力な軍事教団の当主であったとしても、果たして14歳の少年に周囲の大人たちを従えさせる事が出来たのか? 現代の感覚では大きな疑問ですが、現実にこの王朝は成立しています。)

さてこの王朝が、同じイスラム教の中でも宗派が異なるシーア派であるという事はすでに述べましたが、イスラム教というのは、大きく2つの宗派に分かれています。ここで、その違いをごく簡単にお話しておきましょう。 元々イスラム教というのは、預言者ムハンマド(570?~632)が、アッラーの神を唯一の神として広めた一神教の宗教である事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知と思いますが、その開祖ムハンマドが亡くなると、イスラム教の指導者を誰にするのかという、いわゆる後継者争いが起こります。

その争いの中で2つの派閥が対立します。1つは預言者ムハンマドの子孫かその血筋の者を指導者としていく一種の世襲体制派、これがシーア派と呼ばれるものです。そしてもう1つはイスラム学者の合議で選出された「カリフ」と呼ばれる最高権威者を立ててこれをムハンマドの代理人とし、その指導の下にイスラム共同体を創ってイスラム教を盛り立てて行こうとする派。これをスンナ派といいます。(オスマン帝国をはじめ、ほとんど大半のイスラム教国がこのスンナ派です。)

最終的にこの争いは、全イスラムの8割を占める圧倒的多数派であったスンナ派が勝利し、以降スンナ派はイスラム教の正統宗派として今日に至るまでイスラム世界を主導していく事になり、2割に満たない少数派のシーア派は辺境に追いやられてしまいます。

しかし、この時代になって、少数派のシーア派の王朝であるサファヴィー家が、イスラム世界のど真ん中ともいうべき一帯であるイランに広大な王国を建国したのです。これはそれまでイスラムの正統派として君臨してきたスンナ派、とりわけその領袖として台頭しつつあるオスマン帝国にとって、存亡に関わる重大な問題でした。 なぜならシーア派は、建前としてはムハンマドの子孫の者を指導者としていくというシステムであるために(ムハンマドの子孫など、とうに断絶していましたが、シーア派にとっては指導者として自分たちが都合良く利用出来れば誰でも良いのです。)このシーア派がイスラム世界に勢力を広げ、スンナ派に取って代わる様な事になれば、オスマン家をはじめとする他のスンナ派イスラム国家の王家はそれぞれの国を支配する権利を剥奪され、追放されるか滅ぼされてしまう理屈になるからです。

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上の図は全世界のイスラム教徒の分布図です。(黄緑がスンナ派、緑がシーア派、イランの付近に集中していますね。)このシーア派のサファヴィー朝がイランに王国を建国した結果、その後サファヴィー朝滅亡後も上の様にイランにシーア派が深く根付く事になり、それが今日も続く中東におけるイランと他のイスラム諸国との対立を招いて行く事になるのです。

そこで、オスマン帝国では皇帝バヤジット2世主導の下に、シャー・イスマイールの宣伝で帝国内に浸透しつつあったシーア派の弾圧が行われますが、それが返って人々の反感を買い、1511年にアナトリア各地で大規模な反乱を引き起こしてしまいます。

バヤジット2世はこの反乱を鎮圧するため、コルクト、アフメト、セリムの3人の皇子たちにそれぞれ軍勢を与え、各地へ派遣しました。しかしここで、コルクト、アフメトの2人の皇子が次々に反乱の鎮圧に失敗、帝国軍の中核であるイェニチェリ軍団の信用を失ってしまいます。イェニチェリ軍団は末弟のセリム皇子に期待を寄せ、そのイェニチェリの支持を得たセリムはこれを機に、かねてから心の奥に潜ませていた野心の実現のために、父帝に自分を後継者としてバルカン方面に留め置くよう要求します。(帝都イスタンブールの近くにいる方が、即位の際に有利だからです。)

しかし、すでに老齢で退位を考えていたバヤジット2世は、帝位を次男のアフメトに譲位する事を望み、(長男コルクトは文化人で帝位に関心を示さず、三男セリムは君主として気性が激しすぎたため、最もバランスの取れた性格のアフメトを後継者に指名した様です。)セリムの勝手に怒った彼はセリムをクリミアに追放し、これによりこの親子の仲は完全に決裂してしまいます。

前回お話しましたが、このオスマン帝国にあっては帝位継承の際、誰よりも早く皇帝の黄金の玉座に着き、宮廷を押さえた者が皇帝として認められ、それ以外の者はたとえオスマン家の皇族といえども処刑されてしまうのが非情な慣わしでした。(その事を身に染みて最も良く知っていたのが、自らもそうして帝位を継ぎ、実の弟とその一族を死に追いやったバヤジット帝その人でした。)

これは自分の勝手な想像で恐縮ですが、バヤジット帝がセリムを遠い異郷の地に追放したのは、あるいは隠れた親心であったのかも知れません。帝都から遠く離れた所にいれば外国に亡命する時間稼ぎが出来ますし、帝位継承の慣例で処刑されるのを免れるからです。長男コルクトについては定かではありませんが、こちらも生活に困らないだけの多額の資産を持たせてエジプトかグルジアにでも送り出すつもりだったのでしょう。

バヤジット2世は反乱が何とか鎮圧されると1512年に入り、アフメト皇子に対して譲位するから一刻も早く帝都に帰還せよと使者を遣わし、知らせを聞いたアフメトは急いで陣を引き払ってイスタンブールに戻ろうとしました。

しかし、ここで思わぬ事態が発生してしまいます。あろう事か皇帝の親衛隊であるイェニチェリ軍団が、父の怒りを買ってクリミアに逃亡していたセリムを支持してアフメト皇子の帝都入りを阻止、その間にクリミアから急ぎ戻ったセリムが父を廃位し、トプカプ宮殿で即位してしまったのです。完全なクーデターでした。


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上がオスマン帝国9代皇帝セリム1世です。(1465~1520)

新帝セリム1世は即位すると、真っ先に2人の兄とその一族を処刑し、帝位争いの芽を摘んでしまいます。そして廃位し、もはや無力な老いた父を帝都イスタンブールから追放し、トラキアの田舎町に隠棲させてしまいます。この息子の反逆に絶望した先帝バヤジット2世は、隠棲先でまもなく崩御してしまいました。(この彼の死は、セリム1世の毒殺の説が有力です。それは彼の死が、廃位からちょうど1ヵ月後というタイミングの良さからきています。)

こうして父と兄たち、その息子たちまでを完全に根絶やしにした「冷酷者」セリム1世は、オスマン帝国の新たな支配者として歴史にその姿を現しました。彼は即位すると、外征に消極的だった父とは正反対に、たちまち領土拡大の野望をあらわにします。セリムは父帝の時代にほとんど止まっていた帝国の拡大のため、まずは北の強国ハンガリーと和平条約を結び、背後を固めます。こうして北の脅威を除いた彼は、その矛先を南の新たな強敵サファヴィー朝に定めました。

一方サファヴィー朝の王シャー・イスマイール1世も、このオスマン帝国の挑戦を手ぐすねを引いて待ち構えていました。彼は数の少ないシーア派をもっと増やすため、最初の勢力拡大地域をオスマン帝国領であるアナトリアに定めていたからです。1514年8月、両国はその宗派の雌雄を決する戦いに突入します。これが「チャルディラーンの戦い」です。


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上がチャルディラーンの位置です。この戦いにおける両軍の戦力はオスマン軍が6万、サファヴィー軍が4万というものでしたが、騎兵を中心とするサファヴィー軍に対し、すでに鉄砲隊と大砲を効率良く配置した当時最新の軍備を整えていたオスマン軍はサファヴィー軍に圧勝し、敵王シャー・イスマイールは命からがら都に退却してしまいます。

この敗北は、シャー・イスマイールのプライドを大きく傷付けた様です。彼はなんとかセリム1世の追撃を押しとどめたものの、その後国政に関心を失って酒におぼれる毎日を過ごす様になってしまい、37歳という若さでこの世を去ります。(彼の死により王位はその子タフマースヴが10歳で継承しますが、この年齢では政務が取れるはずも無く、サファヴィー朝は崩壊の危機を迎えますが、幸い忠実な側近たちがこの少年王を良く支え、やがて成人した彼は52年もの長い在位中に大変な努力でサファヴィー朝の基礎を固め、そのおかげでサファヴィー朝ペルシア王国は彼の後も12代200年余り続きました。)

一方サファヴィー朝に大打撃を与え、シーア派の勢力拡大を阻止する事に成功したセリム1世は、それまでの歴代オスマン皇帝たちがまだ誰も成し遂げていない大計画を実行に移します。それはもう一つの大国であるエジプトのマムルーク朝に侵攻し、これを征服するというものです。

このマムルーク朝エジプト王国とは、前にもお話した様に元は先代のエジプト王朝であるアイユーヴ朝において、死んでも困らない奴隷を中心として組織された軍団が、その武力を背景に台頭し、アイユーブ王家を乗っ取って築いたというユニークな王朝で、それゆえその王位継承は王家による世襲ではなく、軍団の有力者が王位に着くという極めて珍しい国家でした。この王国はイスラムの聖地メッカを支配下に置き、紅海経由で運ばれるインドからの香辛料貿易を独占して巨万の富を得ていましたが、軍団の有力者が王位に着くというシステムであったために次第に派閥抗争が激化し、その都度繰り返される内乱により、王国はこの時期もはや衰退の極みにありました。

マムルーク朝が「突けば必ず崩れる」と見たセリム1世は1516年8月、マムルーク朝の領土であったシリアに侵攻を開始、これに対し、マムルーク軍も討伐軍を差し向け、両軍はマルジュ・ダービクで最初の戦闘を開始します。兵力はオスマン軍6万5千に対し、マムルーク軍は8万でした。しかし、この戦いにおいても、大量の鉄砲隊と800門ともいわれる多くの大砲を準備したオスマン軍が昔ながらの騎兵中心のマムルーク軍を粉砕、以後マムルーク軍は一度も戦線を維持する事が出来ず、追撃するオスマン軍に敗退を重ね、1517年1月には首都カイロが陥落します。


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上がセリム1世率いるオスマン軍のエジプト進撃の進路です。たった半年余りでシリアからエジプト全土までを蹂躙していますね。カイロ陥落により、マムルーク軍は戦意を失い、最後の王トマン・バイがオスマン軍に捕えられ、セリム1世の前に引き立てられた後処刑されます。彼の死により、267年続いたマムルーク朝エジプト王国は滅亡し、その後エジプトは19世紀までオスマン帝国の領土の一部になります。

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「我らはついにピラミッドをも手にした。」

セリム1世はエジプトを征服した事により、征服王と呼ばれた彼の祖父メフメト2世よりもはるかに広大な領土を帝国に組み入れる事に成功し、またエジプトのナイル川流域の豊かな耕作地帯で生産される豊富な農産物と、先に述べた紅海経由のインド東方世界との交易収入が帝国に莫大な富を持たらしていく事になります。

さらに彼はこうした物理的な利益だけでなく、もっと大きな宗教的権威を手に入れる事にも成功しました。それはイスラム世界において、神の預言者ムハンマドの代理人として連綿と受け継がれ、マムルーク朝においてもカイロでその保護下にあって生き延びてきたアッバース朝最後のカリフから、その地位をオスマン皇帝である彼が継承し、以後オスマン皇帝=カリフとして、政治、宗教両面でイスラム世界の全てを統べる唯一無二の存在を宣言したのです。(セリム1世にカリフの地位を譲った最後のカリフは、セリムの命により密かに抹殺されています。)

セリム1世のエジプト征服作戦は見事に成功し、オスマン帝国はその領土を一気に3倍にまで拡大させました。それだけではなく、彼は自らが預言者ムハンマドの代理人であるカリフになる事により、オスマン帝国をイスラム世界を構成する一国家から、イスラム世界を支配する神聖な国家へと大きく格上げしたのです。

セリム1世の在位はわずか8年余りという短い期間でしたが、その10年に満たない期間に彼が行った遠征によって、気が付けばオスマン帝国は自他共に認める大帝国になっていました。

次回に続きます。

ロードス島攻防戦(前編) ・ 聖ヨハネ騎士団の戦い

みなさんこんにちは。

マムルーク朝エジプト王国を滅ぼし、シリアからエジプトを経て、紅海沿岸のイスラムの聖地メッカまでをもその支配下に置いたオスマン帝国9代皇帝セリム1世は、これらの新たな征服地を土産に意気揚々と帝都イスタンブールに凱旋しました。

彼は1512年に即位してから、先帝である父バヤジット2世の時代にほとんど停滞していた帝国の版図拡大のため、積極的に各地に外征を行い、特に1517年のエジプト攻略作戦においては、たった半年で260年余り続いた大国マムルーク朝を滅亡させ、その広大な領土と莫大な富をそっくり我がものとしたのです。


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上がセリム1世が亡くなる直前のオスマン帝国の領域です。エジプトを手に入れた事で、オスマン帝国はかつて古代ローマ帝国が東西に分裂した時点における東ローマ帝国とほぼ同じ大きさにまで拡大しています。

それだけではありません。セリム1世はエジプト攻略の前年に、トルコから遠く離れた北アフリカのアルジェリア沿岸地域もその支配下においています。但し、これは彼が自ら征服したのではなく、当時この地域を支配していたイスラムの海賊の首領であったバルバロス・ハイレッディンが、オスマン皇帝の臣下として臣従する事の引き換えに、彼をオスマン海軍の提督兼アルジェリア総督として公式に任命した事によるものです。


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上がオスマン海軍の提督にしてアルジェリア総督に任命された海賊の首領バルバロス・ハイレッディンです。(1475~1546)彼は上で述べた様に、元は地中海一帯を荒し回った大海賊でした。当時アルジェリアとチュニジア付近には、「ハフス朝」というベルベル人の王朝がありましたが、この時期すでに衰退しており、彼はその隙をついてアルジェリア沿岸部を奪い取ります。当初彼は、この地に自らの王国を築こうとしたのですが、その夢はスペインなどの攻撃によって早々に諦めざるを得なくなります。(なぜなら彼の兵力は、自分の配下の海賊たちからなる海軍が主力で、海上戦では最強でしたが、領土を守る陸上戦となると、スペインが上陸させた陸軍に兵力の点で敵わないからです。)

そこで彼は、強大な陸軍を持つはるか東のオスマン帝国に臣下として服従し、オスマン帝国の総督としてこの地域を「代理支配」し、地上戦でスペインに対抗するという現実路線を選んだのです。そしてこれはオスマン帝国にとっても願っても無い申し出でした。なぜならオスマン帝国は、騎馬民族出身の帝国であり、当然陸軍は最強を誇りましたが、海の上となると何も知らず、ゆえに海軍は常に弱かったため、海戦となるとこれらの海賊たちを「提督」として召し抱え、ほとんど任せきりにしていたからです。(つまりオスマン帝国の場合はハイレッディンの逆で海軍力が弱かったため、強力な海軍を持つ彼を帝国の総督として厚遇する事で、その不足を補おうとしたのです。)

こうした両者の思惑と利害の一致により、アルジェリア沿岸部はこの地域で最も早くオスマン領となったのでした。

しかし、今や東地中海のほぼ全域をその手中に収めたオスマン帝国のすぐ間近に、小さな「トゲ」ともいうべき厄介な敵が、海の上から帝国を脅かしていました。それは前々回にお話した対イスラム防衛の最前線部隊としてエーゲ海の美しい島ロードス島を本拠地とする「聖ヨハネ騎士団」です。

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上がそのロードス島の位置です。いかにトルコ本国の近くにあるかお分かりいただけると思います。このロードス島を基地とする「聖ヨハネ騎士団」は、元は聖地エルサレムへの巡礼者が長い旅路の末に病に倒れる者が多かった事から、中世イタリア最初の海洋都市国家としていち早く繁栄したアマルフィの敬虔なキリスト教徒の商人が、修道士たちを集めて病院と宿泊所を作った事から始まったものでした。その後、当初の設立の目的とは逆に軍事組織として発展し、十字軍時代にはイスラム勢力と激しい攻防を繰り広げましたが、その後の十字軍の衰退とオスマン帝国の興隆によって、この時代にはこのロードス島を基地として、海上でイスラム勢力と戦っていました。(といってもそれは建前で、実際に彼らがしていた事は海賊と同じでした。騎士団の軍船は地中海沿岸各地と帝都イスタンブールを結ぶオスマン帝国の海上交易路に出没し、イスラム船を襲撃、拿捕して積荷を強奪し、タダで手に入れたそれらを転売して大儲けしていたのです。)

セリム1世はこのロードス島の攻略を計画し、早速準備に取り掛かりますが、彼にはその時間がもうありませんでした。なぜならその矢先の1520年、彼は54歳で急死してしまったからです。


この時オスマン帝国にとって幸いだったのは、彼には男子の後継者が一人しかいなかった事です。オスマン家歴代皇帝たちが、即位の度に実の兄弟間で血みどろの帝位争いを繰り返す慣わしであったのは、これまでも当ブログで何度かお話して来ましたが、今回はそれをしなくて済みます。(笑)

さて、今回幸運にも皇帝の黄金の玉座を血に染める事無く帝位を継承した人物こそ、後に「大帝」と称され、オスマン帝国歴代皇帝の中で最長の46年もの在位を誇り、オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世です。


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上がオスマン帝国10代皇帝スレイマン1世です。(1494~1566)彼は26歳で即位し、幸運にも兄弟がいなかった事からスムーズに皇帝となれたオスマン家で数少ない人物でした。彼については後述していきますが、皇帝として、武人として、また哲学や学問を愛する文化人としても優れ、さらに若い頃は大変な美青年であったそうです。そんな彼が君臨した時代は、オスマン帝国が最も強大さと繁栄を誇った最盛期の黄金時代であり、その体現者こそ、このスレイマン帝その人でした。

スレイマン1世はその即位と同時に、代替わりには付きものの各地の反乱に見舞われたものの、早々に数ヶ月でこれを鎮圧してしまい、即位翌年の1521年には早くも最初の大規模な外征を行って帝国の更なる拡大を推し進めます。彼の外征の方向は、父セリム1世がもっぱらイスラム世界に目を向けたものに対し、彼の場合は反対のヨーロッパ方面に向けられたという点に特徴があるでしょう。そしてこの彼の意図が、ヨーロッパの人々をして、「泣く子も黙るオスマン・トルコ」と言わしめるほどの恐怖に陥れる事になるのです。

スレイマン1世は最初の外征先として、かつて彼の曽祖父であるメフメト2世が攻略に失敗して以来、60年以上も手を出さなかったバルカン半島のベオグラードを狙いました。そして1521年8月、彼はなんと25万もの大軍を動員してベオグラードを包囲し、ハンガリーの守備隊をあっけなく全滅させてこれを苦もなく占領してしまいます。このベオグラードを攻め取った事で、スレイマンは後のヨーロッパ侵攻作戦の拠点を手に入れたのです。

その彼が、本格的なヨーロッパ侵攻の前にどうしても叩いておくべき敵として次に狙ったのは、彼の父セリム1世が攻略準備をしていたロードス島の聖ヨハネ騎士団でした。このまま彼らがロードス島にいる限り、周辺海域でのイスラム船への海賊行為は止まず、東地中海の海路の安全、つまり、征服したばかりのエジプトのカイロやアレクサンドリアなどと、帝都イスタンブールとの間の円滑な物資の流通が立ち行かず、帝国に送られるはずのエジプトの豊かな富が騎士団によって奪い取られ、彼がこれから行おうとしているヨーロッパ侵攻の軍資金の確保や物資の補給に大きな支障を来たしてしまうからです。

そこでスレイマン1世は1522年6月、このロードス島攻略を決意、帝国全軍に動員令を発します。一方その攻略の的であるロードス島の聖ヨハネ騎士団も、オスマン帝国の不穏な動きをすでに察知しており、島の防衛体制の増強を急いでいました。


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上の4枚の写真は現在のロードス島の様子です。(現在はギリシャ領で島全体の人口は約11万7千ほど、その内半数の5万2千が、最大の都市ロードスに集中しています。)写真を見てお分かりの様に、城壁に囲まれた旧市街と新市街に別れ、特に旧市街は、聖ヨハネ騎士団が築いた堅固な城壁に囲まれた城塞都市でした。最後の4枚目の写真は騎士団の司令官である騎士団長の居城で、同時に騎士団の司令部です。

この聖ヨハネ騎士団は、先に述べた様に元はキリスト教の聖地エルサレムの巡礼者の保護と病院を兼ねた宿泊施設を提供する十字軍騎士団の一つに過ぎませんでしたが、この時代ヨーロッパ諸国では、すでに聖地奪回を目的とした「十字軍」などというものはとうに廃れており、(理由は単純です。エルサレムを奪還しても、その距離の遠さから占領確保が困難ですぐにイスラム勢力に奪われてしまうため、言わば「切が無い」事と、遠征にかかる莫大な費用の割には見返りが少なく、王候たちが嫌がったためです。)中世的思想のこれら騎士団もほとんど解散していました。


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上は鎖帷子(くさりかたびら)に兜をかぶった一般的な騎士たちです。

そんなヨーロッパ世界にあって、この聖ヨハネ騎士団は対イスラム聖戦を目的とする唯一の十字軍として貴重な存在であり、ローマ教皇やスペインをはじめとするカトリック諸国の手厚い保護の下に、全ヨーロッパのカトリック教徒の寄進と、先に述べたイスラム船への海賊行為による略奪で莫大な収入を得ていました。(上の写真の立派な城塞都市が、騎士団の財力の大きさを良く物語っています。)

この様に貴重な存在であった聖ヨハネ騎士団は、ヨーロッパの王侯貴族たちにとっても、自らの経歴の権威づけのために格好の存在でした。すなわちこの聖ヨハネ騎士団の騎士となる事は、異教徒イスラムの聖戦に従事する神に最も近い神聖な存在であり、それによって多くの人々から畏敬の対象として見られる事は、ヨーロッパの王侯貴族たちが自分の国や領地を統治していく上で、それが有る無しで大きな違いをもたらすのです。(これはたとえば誰かを紹介されて、「あの人は東大卒」といわれれば、「畏敬」とは行かずとも、たいてい誰でも一目置いてしまうのと似た様な心理でしょうか? 笑)

そこでヨーロッパの王侯貴族たちは、やがて自分の後継者となる王子や子弟たちの経歴に「箔を付けるため」に、この聖ヨハネ騎士団にこぞって入団させる様になります。そのため騎士団に所属する騎士たちは、団長以下その全てが名のある王侯貴族の子弟たちで占められ、いつしかこの騎士団の騎士になる事は、ヨーロッパ王侯貴族のステイタスシンボルになっていました。


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上は聖ヨハネ騎士団の騎士の姿です。今日の戦果を語り合っているのでしょうか?

さてその騎士団の戦力ですが、これはそれほど多いものではなく、騎士の総員は500余りから、多くても600名を超える事はなかった様です。騎士たちはみな身分の高い名門貴族で、一人の騎士に従者が2~3人付くので、それを含めた騎士団の純粋な兵力は2千余り、それにロードス島在留の傭兵が1500余と、ロードス島の島民3千余で合計は6500から多くても7千には満たず、これが防衛軍の全てでした。

それに対してスレイマン1世率いるオスマン軍は、帝国正規軍だけで10万、さらに従えて間もないシリア、エジプトの軍勢が同じく10万で、総勢20万を越える大軍でした。さらに海上からは、スレイマン帝自ら率いる帝国の主力軍を乗せた300隻以上の軍船に、南からはエジプト軍を乗せた200隻以上の軍船を合わせ、合計500隻を越える大艦隊でした。(騎士団も艦隊はありましたが、その数は多くても20隻に満たず、またこれらに兵を乗せてしまうと防衛戦力が減ってしまう事から、ロードスの港に空しく繋がれたままほとんど使われませんでした。)

こうして1522年8月、東地中海の制海権をめぐるロードス島攻防戦は、不気味な静けさをたたえながら5ヶ月に亘る激しい戦いの幕を開ける事になります。

次回に続きます。

ロードス島攻防戦(後編) ・ 薔薇の島陥落す

みなさんこんにちは。

1522年6月、オスマン帝国10代皇帝スレイマン1世は、今や帝国の内海となった東地中海の中で、これまでどうしても落とせなかったヨーロッパキリスト教勢力の最後の牙城であるロードス島の攻略を目指し、総勢20万の大軍と、それらを輸送する500隻以上の大艦隊を率いて出陣しました。

このロードス島には、前回お話した様にオスマン帝国が興隆するはるか以前の11世紀に、イスラム勢力から聖地エルサレム奪還を目的として結成された十字軍である「聖ヨハネ騎士団」が駐留し、ロードス島近海を航行するイスラム船を襲撃・拿捕して海上交易路を脅かし、オスマン帝国を深く悩ませていました。

スレイマン1世は、このオスマン帝国にとって「のど元のトゲ」ともいうべきロードス島を攻め落とし、聖ヨハネ騎士団を壊滅させる事で、帝国の海上交易路の安全確保を図り、自らが行おうとしていたヨーロッパ内陸部侵攻作戦の海の上の障害を取り除いておこうとしたのです。


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上がロードス島の位置と、オスマン軍の進撃経路です。オスマン軍は大きく3つの大部隊に別れ、スレイマン1世率いる主力部隊本軍10万は陸路アナトリアを南下し、ロードス島対岸まで到達した所で、帝都イスタンブールから出航した皇帝の大宰相ムスタファ・パシャ率いる300隻の大艦隊がそれらを輸送する手はずになっていました。また南からは、スレイマン帝の父セリム1世の代に征服して間もないエジプトの大軍10万が、これも200隻の大艦隊でアレクサンドリアを出航、一路ロードス島を目指して北上していました。(軍勢の数がほぼ同じなのに、オスマン軍主力部隊とエジプト軍の艦船の数が違うのは「船の大きさが違うから」です。オスマン帝国は海軍が弱く、艦艇は小型船が多かったのに対し、エジプトは古代から地中海を行き来し、大型船の操作に慣れていたため、艦艇はオスマン軍よりはるかに大型で、その分大勢の兵を輸送出来たからです。)

一方迎え撃つ聖ヨハネ騎士団の兵力は、騎士600とその従者たち1千余、傭兵1500余、島民3千余の総勢6千から7千程度で、30倍の兵力を持つオスマン軍に対抗しなければなりませんでした。

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上は聖ヨハネ騎士団が築いた城壁に囲まれた現在のロードス島旧市街の様子です。ちなみに、この島の名前である「ロードス」の由来は、「薔薇」(ばら)つまり「ローズ」それが転じて「ロードス」となったと言われ、かつてこの島に咲き誇っていた(らしい)事から古代ローマ時代に付けられたと言われています。美しい青い海に映える古い街並みが印象的です。3枚目の写真のオープンテラスのレストランに注目してください。日本でなら建築基準的にあり得ない店構えです。こんな所で通りを行きかう異国の人々を眺めながらのんびり食事を楽しみたいものですね。(笑)


ロードス島攻防記 (新潮文庫)

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このロードス島攻防戦について詳しくお知りになりたい方は、上の塩野七生さんの本が良書です。ページ数は240ページで、このロードス島を防衛する3人の若い騎士たちの物語です。自分はこの本を読む時、フォーレのシチリアーナを聴きながら、地中海の情景を想像して楽しんでいます。(笑)

さて、1522年6月に帝都イスタンブールを出陣したスレイマン1世は、周到な準備をしつつ1ヶ月以上かけてゆっくりと進軍し、同年7月末に、主力部隊の全軍がロードス島への上陸を完了しました。一方防衛するロードス軍は、ロードスの城塞都市に立てこもり、トルコの大艦隊の侵入防止のため、軍港と商港には湾の入り口に鎖を張って迎撃態勢を整えていました。

海上戦闘が苦手なオスマン軍の弱点を良く知っていた騎士団は、敵が内陸部の城壁に攻撃を集中してくる事を予想し、監視の兵を除いてほぼ全軍を内陸部の城壁上に展開させます。騎士団のこうした戦法は、さかのぼる事70年前の1453年に、コンスタンティノープル攻防戦でビザンツ軍がとったやり方を踏襲したものですが、今回は2つの点で大きな違いがありました。1つは城壁の構造の進歩です。

コンスタンティノープル攻防戦の際には、世界最大最強と言われた難攻不落の三重の城壁が戦いの舞台でしたが、これは文字通り高い「壁」であり、オスマン軍が準備した数百門の大砲の一点集中砲撃によって各所に穴を開けられ、最終的にはそこからオスマン軍の侵入を許して陥落するに至ったものですが、ここロードス島の聖ヨハネ騎士団はその失敗を踏まえ、城壁を高くするのではなくその手前の堀を深く掘り下げる構築法を採用していました。(堀を深くすれば、城壁を高くするのと同じ効果が得られますからね。)

もう1つの違いは籠城に備えて食糧を潤沢に備蓄していた事です。コンスタンティノープル戦の時はビザンツ軍民合わせて4万以上の人口があったため、1ヶ月程度で食糧が底を突いてしまったのですが、ここロードス島は対イスラム勢力への最前線であり、常時臨戦態勢にあった聖ヨハネ騎士団においては常日頃から食糧の備蓄確保に努め、今回の戦いの時点でも、長期戦に備えておよそ1年は籠城出来るだけの食糧が備蓄されていました。

実は、このロードス島がイスラム勢力に上陸され、籠城戦をするに至ったのはこれが初めてではありません。とりわけスレイマン1世の曽祖父で、コンスタンティノープルを攻め落としたメフメト2世も大軍をこの島に上陸させています。しかしいずれも城塞都市ロードスに立て篭もった騎士団の奮闘によって戦闘は長期化、やがて包囲する側が食糧不足と疫病の蔓延によって自壊し、結局包囲を解いてしまう結果となった経緯がありました。

そのため騎士団は今回もその経験を生かし、兵力では圧倒的に敵わない以上長期籠城戦に持ち込み、敵の大軍を内側から崩壊させる作戦に望みをつないでいたのです。

1522年8月1日、再三にわたるスレイマン1世からの降伏勧告を拒否し続けたロードス軍に対し、オスマン軍の総攻撃が開始され、ここにロードス島攻防戦の幕が切って落とされます。オスマン軍の準備した数百門の大砲の猛烈な砲撃と呼応して、無数のオスマン兵たちが一斉に城壁目掛けて突撃を繰り返し、城壁の上から迎え撃つロードス軍が弓矢と石弓、鉄砲でよじ登ってくるオスマン兵を狙い撃ち、次々に打ち倒していきます。

激しい攻防戦は騎士団の予想通り長期化し、月日は流れていったのですが、ここで騎士団の計算外の事態が発生していました。オスマン軍がなかなか包囲を解こうとしないのです。これは前回の曽祖父の失敗を踏まえ、ひ孫のスレイマン帝が大量の輸送船による「ピストン輸送」で、武器弾薬と食料の安定供給を成功させていたからでした。

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上は当時の地中海航路の大型船です。

「敵は20万の大軍だ。これらを食わせる食糧など、この小さなロードスの島に有りはしない。1ヶ月程度持ちこたえれば撤退するだろう。」

騎士団幹部たちはそう予想していたのですが、すでに戦いは4ヶ月を越え、それでもオスマン軍の攻撃は衰えを知らず、ロードス軍の中には次第に焦りの色が見えはじめて行きます。食糧については、先に述べた様に1年分の備蓄があったため、まだ半年以上は籠城する事が出来ましたが、騎士団が心配したのは弾薬の不足でした。城壁の上からの銃撃戦で大量の弾薬を消費してしまい、節約のため騎士たちは白兵戦に切り替えざるを得なくなり、もともと兵力の少ないロードス軍は戦死者と負傷者が増え始め、これらが騎士団の緊急の課題となって重くのしかかってきました。

騎士団首脳部はヨーロッパ各国に救援要請の使者を送り、さらに各国在留の聖ヨハネ騎士団の騎士たちに、傭兵でもなんでも良いから集められるだけの兵と武器弾薬食糧を携えてロードス島に援軍に来るように命じました。

しかし、神聖ローマ帝国、フランス、ローマ教皇国などのヨーロッパ各国は互いの争いに夢中で、ロードスの様な地中海のはずれの小島の事など眼中になく、どの国も援軍を差し向けようとはしませんでした。結局ロードス救援のため向かったのは、ヨーロッパ在留の同じ騎士団の騎士たちで、彼らは騎士団が最も欲していた武器弾薬食糧を大量に船に積み込み、それぞれ数人、あるいは多くて数十人ほどの騎士や傭兵を乗せてロードス島の港に入港しました。(「同じ釜の飯を食った仲」とは良く言ったものですが、軍隊というものは男同士の友情を強めます。いかに騎士たちの結束が強かったか想像出来ますね。)

そうした努力で一時はロードス軍の士気も上がりましたが、ロードス軍を取り囲む状況は一向に変わらず、人々の気持ちは大きく揺らいでいきました。また、オスマン軍においても苦しい戦いである事は同じでした。連日の激しい戦闘で多くの損害を出し、当初20万いた兵力も半数が戦死、戦病死しており、すでに4ヶ月目に入ってもまだ決着は着かなかったからです。

オスマン軍最高司令官である皇帝スレイマン1世はこうした状況を打開するため、戦略の転換を図ります。それはこれまで騎士団をはじめロードス軍に対し、「降伏」を勧告していたのですが、それでは誇り高い騎士たちのプライドを逆なでし、逆に徹底抗戦の意志を持たせてしまう事から、この文言を使わずに「開城」を申し入れる事にしたのです。

そもそもスレイマン帝がこのロードス島を攻略する決意をしたのは、ロードス島の領土的な価値ではなく、そこに巣食ってイスラム船を襲撃するこの聖ヨハネ騎士団を排除し、東地中海における海上交通の安全確保を図る事が大きな目的でした。つまり簡単に言えば騎士団がいなくなれば良いのです。そのため彼は「騎士団を滅ぼす」のではなく、「島から追い出す」作戦に切り替えた方が得策と判断し、作戦の転換を図りました。両軍の交渉は12月中旬に行われ、オスマン側から次々に騎士団に配慮した有利な条件が提示されます。それは以下の様なものです。

1.騎士団とその騎士たちは、大砲を除く全ての財産を持って島から退去する。

1.騎士団の退去と全ての財産の運搬に必要な船舶が不足の場合、オスマン側は無償で提供する。

1.退去の準備に12日間を与え、その間オスマン軍は一切の戦闘行為を停止する。

1.ロードス島民で島を去りたい者は3年間以内の自由退去を許す。

1.残留するキリスト教徒の島民は完全な信教の自由を約束する。

などです。連日の戦闘で大きく精神面で痛手を受けていたロードス側は、もはや完全に「開城」に動き出していました。こうして同年12月末、両者の間で和平交渉が成立し、ここにロードス島攻防戦は延々5ヶ月に及ぶ戦いの幕を閉じる事になりました。

明けて1523年1月、島を出る騎士団の艦隊25隻と、島民およそ5千を乗せた50隻の船団が、住み慣れたロードス島を離れていきました。しかし、島民たちは民間人なので、自由に行き先を決められましたが、騎士団はそうは行きません。騎士団首脳部は自分たちの新たな拠点を求めて数年の間ヨーロッパ各国を放浪しますが、なかなかそれを見つけられませんでした。

しかし、1530年になって情況が好転します。時の神聖ローマ皇帝カール5世が、北アフリカからのオスマン帝国の防衛を条件として、地中海のほぼ中央に位置する小島を騎士団に与える事を許可したのです。その島の名は「マルタ島」 騎士団が長年住み慣れた薔薇の島ロードスとは比べものにならない荒れた島でした。


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上がマルタ島の位置と、現在の様子です。

ロードス島を追われて以来8年の苦節の末、ようやく聖ヨハネ騎士団は新たな本拠地を手に入れたのです。そして彼らは当時荒れ果てた何も無い島だったこの地に、オスマン帝国への復讐戦を誓って一から城塞都市を築き、ロードス島攻防戦から43年の時を経て、再びスレイマン1世の差し向けたオスマン帝国の大軍と戦う事になるのです。

次回に続きます。

日の沈まない帝国への挑戦 ・ ウィーン攻略作戦

みなさんこんにちは。

1522年、延々5ヶ月に及ぶロードス島攻防戦で多大な犠牲を払いながらも、東地中海におけるオスマン帝国最大の脅威であった聖ヨハネ騎士団を追い出し、海上交通の安全を確保したスレイマン1世は、いよいよ本来の目的であったヨーロッパ大陸への本格的な侵攻作戦の準備に取り掛かりました。

その最初の第一段階として彼が狙ったのは、長くオスマン帝国とせめぎあって来た北の強国ハンガリー王国です。折りしもこの時期のハンガリーは、最盛期の国王であったマーチャーシュ1世(1443~1490)の時代を過ぎ、南からオスマン帝国から、西からは神聖ローマ帝国のハプスブルク家の政治・軍事両面の干渉を受け、かつての栄光から一転衰退期に入っていました。


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上がこの時のハンガリー国王であったラヨシュ2世です。(1506~1526)彼は父王の死後わずか10歳で即位しましたが、まだ少年の彼に当然国政が取れるはずもなく、ハンガリーは周辺国の干渉と国内の大貴族たちの専横によって弱体化してしまいます。

オスマン帝国のスレイマン帝はこの機に乗じて一気にハンガリーに侵攻し、その領土をもぎ取るつもりでいました。しかし、ここで思わぬ事件が彼の計画を大きく遅らせてしまいます。スレイマンが皇帝に即位する前に、先帝であった父セリム1世が1517年に征服したエジプトで大規模な反乱が発生してしまい、その鎮圧に3年近くを要してしまったからです。

その反乱を鎮圧し、彼がハンガリー侵攻を開始出来たのは1526年になってからでしたが、その間にハンガリーでは、無力な少年王であったラヨシュ2世が二十歳の青年王に成長し、国家の存亡をかけてオスマン帝国との直接対決を決断します。

1526年4月、スレイマン1世は6万の軍勢を率いてハンガリーへの侵攻を開始、迎え撃つラヨシュ2世率いるハンガリー軍5万とモハーチで会戦しました。しかし、銃火器と大砲を駆使したオスマン軍の最新の戦法に、重い甲冑姿の騎士からなる時代遅れの戦法で挑んだハンガリー軍は2万の戦死者を出す壊滅的敗北を喫し、総大将である若き国王ラヨシュ2世も戦死してその短い生涯を閉じる事になってしまいました。(オスマン側の損害は約2千。)

一方勝利したスレイマン1世の大軍は、そのままハンガリー領内を蹂躙し、首都ブダペストに入城、ハンガリーを完全に占領してしまいます。これにより彼は歴代皇帝として初めて、オスマン帝国建国以来長く帝国を脅かす存在であった北の強国ハンガリーを征服する事に成功したのです。

このオスマン帝国のハンガリー征服は、当時のヨーロッパ諸国に強烈なショックを与えました。とりわけハンガリーと国境を接するすぐ隣の大国である神聖ローマ帝国(実際はドイツ諸侯の連合国家ですが。)の皇帝家であるハプスブルク家のオーストリア大公国にとっては大きな脅威です。

当時この神聖ローマ帝国の皇帝は、そのハプスブルク家の当主カール5世という人でしたが、彼はスペイン王でもあったため、ポルトガルのエンリケ航海王子に始まる大航海時代の到来と、その後のコロンブスによる新大陸の発見によって、スペインが南北アメリカ大陸に広げた広大な植民地から莫大な金銀がヨーロッパに運ばれ、彼の帝国は「日の沈まない帝国」と世に称されるものになっていました。


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上がその「日の沈まない帝国」の主である神聖ローマ皇帝にしてスペイン王カール5世です。(1500~1558)彼は厳格なカトリックであり、彼こそはヨーロッパキリスト教世界最大最強の皇帝でした。彼は自らが全キリスト教徒の守護者である皇帝として、異教徒イスラムからヨーロッパを守る使命感に燃えていました。かたやイスラム世界最大最強の皇帝であるスレイマン1世と彼は、同じ時代を生きていたのです。そしてこの2人の最強の皇帝の対決は、もはや必然的なものになっていました。

このヨーロッパの皇帝であるカールに対して、イスラムの皇帝スレイマンは相手の強大さを考慮した上で、正面での軍事衝突の前に、周到な準備から取り掛かります。まずは敵であるカール5世の「弱点」を探し出し、それを突く事です。

スレイマン自身がそうであった様に、権力者である以上敵が必ずいるものです。彼はヨーロッパにおけるカールの敵を味方に付け、それを利用してカールの足を引っ張り、戦いを有利に進める事を画策します。そしてそのための「道具」は、カールの周りにいくらでも見つける事が出来ました。なぜならカール5世の「日の沈まない帝国」は、内外ともに敵だらけであったからです。

そのカール5世のヨーロッパにおける最大の敵は、隣国フランスの国王フランソワ1世でした。フランソワはスレイマンと同い年で、かつて神聖ローマ皇帝の座をめぐってカール5世と激しく争い、その後も生涯に亘ってカール5世を最も悩ませた人物です。スレイマンはこのフランソワを自分の味方に引き入れようと策を練ります。


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上がそのフランス国王フランソワ1世です。(1494~1547)彼がカールと神聖ローマ皇帝位を争った理由は、個人的な好き嫌いの感情論ではなく、スペイン王であるカールがドイツ神聖ローマ皇帝となってしまうと、フランスがスペインとドイツに挟まれ、いわゆる「挟み撃ち」に遭ってしまうのを恐れたためでした。そして両者の帝位争いは、新大陸からの莫大な金銀で選帝侯らの買収に成功したカールの勝利に終わり、フランソワにとっては最も恐れた事態に陥ってしまったのです。

フランソワ1世はなんとかこの事態を打開すべく、なりふり構わぬ仰天の手を打ち放ちます。それは異教徒であるイスラムの覇者オスマン帝国と同盟を結んでカール5世を逆に「挟み撃ち」にしてしまうというものでした。つまりフランソワも、オスマン帝国をカールを追い詰める「道具」に利用しようと目論んだのです。

フランソワからの同盟の申し入れは、オスマン帝国のスレイマン1世にとって願ってもないものでした。こうして利害が一致したフランス王国とオスマン帝国との間で同盟が結ばれ、同時にカール5世は苦境に立たされます。

1529年5月、スレイマン1世はついにヨーロッパ内陸部への侵攻作戦を開始します。彼は帝国軍主力部隊およそ12万を率いて帝都イスタンブールを出発、ハンガリーからオーストリアに侵攻し、カール5世のハプスブルク軍を蹴散らしながら前進し、同年9月末にはハプスブルク家の本拠地であるウィーンに到達し、これを完全に包囲してしまいます。


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上がこの時のスレイマン1世の進撃経路です。

ここに「日の沈まない帝国」とオスマン帝国の全面対決が始まったのです。攻めるスレイマン帝の12万の大軍に対し、防衛するハプスブルク家のオーストリア軍は5万余りでした。

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形式的な降伏勧告と分かりきった拒絶のやり取りの後、ウィーン攻防戦は幕を上げます。堅固な城塞都市であったウィーンに対し、今回もオスマン軍は300門以上の大砲による一斉射撃と大量の歩兵を投入した物量作戦で激しく攻撃します。(このやり方はスレイマン1世が最も得意とした戦法でした。)防衛するハプスブルク守備隊とウィーン市民は、それまで経験した事もない凄まじい砲撃の大音響に、恐怖を覚えながらも頑強に抵抗し続けました。

しかし、思わぬ事態がウィーンを窮地から救う事になります。このウィーン攻防戦が始まったのは10月で、北国のオーストリアではすでに霜が降り、寒さが南国育ちのオスマン兵たちの士気を大きく削ぐ事になったからです。

世界史はもちろん日本史においても、たとえば戦国時代などは大軍で敵の城を取り囲む籠城戦というのは数限りなくその事例がありますが、一見すると包囲されている側が絶体絶命のピンチの様に思われます。(実際その通りですが。笑)しかし現実には包囲している側も大変なのです。なぜなら包囲軍の兵士たちは、何も無い野外で暑さ寒さや雨風にさらされるからです。

また、ウィーンが内陸にあった事も幸いでした。スレイマン1世は12万の大軍を維持するための大量の物資、とりわけ食糧と弾薬の補給を全て陸路で運ばせなければならず、前線のオスマン軍各部隊で補給が追いつかない状態に陥ってしまいました。

これらの悪条件は、名君スレイマン1世にウィーン攻略の中止を決意させるに十分でした。そして作戦開始から2週間で、彼は全軍に撤退命令を出し、イスタンブールへと帰ってしまいます。それだけではありません。この戦い以降スレイマンは、あれほど情熱を傾けて準備していたヨーロッパ侵攻作戦を断念してしまい、以後はオーストリア、チェコ、ポーランドとハンガリーとの国境線を帝国の北限と定めると、それ以上ヨーロッパに攻め入る事を止めてしまったのです。

これはヨーロッパにとってはありがたい事でしたが、ではなぜ彼はそれ以上ヨーロッパに進撃するのを止めてしまったのでしょうか? その理由は歴史家の間で諸説語られていますが、最大の理由はやはり先に述べたヨーロッパの気候が大きな原因の様です。

そもそもスレイマン率いるオスマン帝国の支配地域は、本国トルコを含めて暖かい(というより暑い)南のイスラム世界がほとんどです。そのためトルコ人をはじめ、オスマン帝国を構成する大半の民族は冬の厳しい寒さというものを知らず、緯度がはるかに上のヨーロッパの凍えるような寒さは、当時のオスマン帝国の人々に強烈な忌避感を憶えさせた様です。

いずれにしても、この戦い以降オスマン帝国のヨーロッパ侵攻は、150年後の第2回目のウィーン攻略まで無くなるのですが、この事件がヨーロッパ社会に与えた心理的ショックは計り知れないものがありました。特に当時宗教改革の真っ只中にあったドイツ神聖ローマ帝国では、カトリックの腐敗を説いたルター率いるプロテスタント勢力が、オスマン帝国の脅威を「神の罰」と宣伝し、オスマン帝国という外の敵を退けたカトリックの保護者である皇帝カール5世は、今度は国内のプロテスタントという新たな敵に悩まされ、ついには退位してハプスブルク帝国をスペインとオーストリアに分割してしまう事になるのです。

次回に続きます。

地中海を死守せよ! ・ マルタ島の戦い

みなさんこんにちは。

1529年10月、ヨーロッパ侵攻を目論んだオスマン帝国のスレイマン1世率いる12万の大軍は、神聖ローマ帝国皇帝カール5世のハプスブルク家本拠地であるオーストリアのウィーンを包囲し、これを手に入れんと猛攻を仕掛けてきました。

ウィーンといえば、中央ヨーロッパに燦然と輝く都であり、その位置はもはや「ヨーロッパ辺境」とは言えず、またその存在は、これまでオスマン帝国が攻め取ってきた東ヨーロッパのバルカンの諸都市とは比較にならない重要性を占めていました。

スレイマン帝は、このウィーンを攻め落とす事でヨーロッパ人の心胆を寒からしめ、それをてこにしてさらにヨーロッパ中央へと領土を広げるつもりでいたのです。そして迎え撃つハプスブルク軍とウィーン市民の防衛軍5万との間で激しい攻防戦が繰り広げられます。

しかし、この彼のたくらみは、前回もお話した様に大軍を支える食糧弾薬などの物資補給が追いつかず、特にヨーロッパの気候の寒さに驚いたオスマン軍将兵の士気の低下によって、作戦開始からたった2週間で瓦解し、スレイマン帝はそれ以上のヨーロッパへの遠征を中止してしまいました。

このウィーン攻略作戦は失敗こそしたものの、ヨーロッパの人々にオスマン帝国への強烈な心理的恐怖を与えるという効果は絶大で、以後対オスマン帝国の最前線となるオーストリアの支配者ハプスブルク家では、隣国ハンガリーのオスマン帝国の宗主権を認め、さらに貢納金を払う事で、(つまり金で手なずけて)トルコの侵略を抑える政策に転換します。

一方ヨーロッパ侵攻を断念したスレイマン1世は、今度はその遠征の矛先を2つの方面に進めます。1つはオスマン帝国のはるか東のイランを中心に勢力を振るうサファヴィー朝ペルシア王国。そしてもう1つは地中海です。


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上はサファヴィー朝とオスマン帝国の位置関係です。このサファヴィー朝は、同じイスラムでも、宗派の違う「シーア派」の王朝であり、オスマン帝国にとってこの大国は常に背後を脅かす存在でした。

ウィーン攻略を断念したちょうどその頃の1530年代初頭、両国の国境付近の領主の間で個別の争いが起きていました。スレイマン帝はこれを口実に、この機会にサファヴィー朝を滅ぼしてイランを手に入れ、シーア派を壊滅させてしまうべくこの地域に侵攻軍を差し向けました。

しかしこの遠征はスレイマン1世にとって予想外の長期戦を強いられる事になります。当時このサファヴィー朝ペルシア王国の王は同王朝2代目のタフマースヴ1世という人でしたが、有能な君主であった彼の粘り強い抵抗により結局スレイマンはイランの完全な征服を諦めざるを得なくなります。


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上がそのサファヴィー朝ペルシア王国2代国王タフマースヴ1世です。(1514~1576)彼は初代の父王が築いた王国を、父の死によってわずか10歳で引継ぎましたが、まだ少年の彼に何も出来るはずはなく、王国は国内外の争いで乱れに乱れ、彼もそれに大きく翻弄されて何度も危険な目に遭っています。しかしこうした苦労が逆に彼を強く鍛え上げ、有能な王へと育て上げる事になりました。彼はオスマン軍が大砲と銃火器を主力とする当時最新の装備であった事から、騎兵を中心とする自らのサファヴィー軍では勝ち目が無いと正面での戦いを避け、オスマン軍を奥地へと引き入れ、補給線が延びきった所で敵の後方に部隊を出没させ、各個にオスマン軍の補給部隊を攻撃し、敵の追撃を受けないうちに素早く撤収するゲリラ戦術で応戦し、オスマン軍を悩ませます。

タフマースヴ王との長期戦でかなりの戦力を消耗したスレイマン帝はイラン征服を諦め、1555年にイラクをオスマン領とする事で両国は国境線を画定し、東方遠征は終結します。(通算すると20年以上に及ぶ長い戦いでしたね。彼のこの方面における執着振りからすると、なかなか諦め切れなかったのでしょう。)

さて、東の強敵ペルシアとの戦争をようやく終わらせたスレイマン1世がそれと並行し、46年に及ぶその在位期間の全てを通じて最も情熱を燃やしたのが全地中海の征服です。上の地図をご覧いただければお分かりの様に、すでに彼の帝国は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ3大陸にまたがる大帝国に発展していましたが、あくまでそれは陸上での事であり、海上支配の確立は今だ不十分だったからです。

先に何度か当ブログでもお話しましたが、このオスマン帝国という国家は元は騎馬民族トルコ人の築いたものです。そのため海洋民族でない彼らは当然の事ながら海軍の伝統がなく、船の数だけは金に糸目をつけずにそろえる事は出来ても、それを操る人材に乏しく、海の上での戦いは終始苦手なものでした。そしてそれが、オスマン帝国の地中海支配を遅らせる原因でもありました。

スレイマン1世は帝国軍の弱点であるこの海軍力の増強に努め、そのために一人の強力な味方を得る事に成功します。それは北アフリカのアルジェリア沿岸部を根城にする当時の地中海最大の海賊であったバルバロス・ハイレッディンです。


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上がその大海賊バルバロス・ハイレッディン(1475~1546)と、その根拠地アルジェの城塞都市です。彼は先に述べた様にアルジェリアのアルジェを根拠地とし、常時50隻以上の艦隊を自由に操っていた地中海最大最強の海賊でした。

バルバロスはすでにスレイマンの父セリム1世の時代からオスマン帝国とコネクションを持っていましたが、自分の支配地であるアルジェリアが、絶えず陸上からスペインの脅威にさらされる弱点を克服するためにオスマン帝国の強大な陸軍力を欲し、1533年にスレイマン1世に完全な臣下として服属と忠誠を誓い、スレイマンは彼をアルジェリア総督兼オスマン海軍の総司令官に任命します。

それまで弱かったオスマン海軍は、ハイレッディンの帝国への帰順により飛躍的に強化され、スレイマンはハイレッディンの率いる艦隊と彼の支配地アルジェリアをタダで手に入れる事が出来たのです。(スレイマン帝はさぞ上機嫌だった事でしょうね。笑)

一方オスマン海軍の総司令官に任命されたハイレッディンは、スレイマン帝の期待に大きく応え、その勇猛果敢さと豊富な海戦経験をフルに活かして地中海を暴れ回り、オスマン帝国の地中海における制海権の確保に大きく尽力します。彼の活躍により、地中海はその3分の2がオスマン帝国の支配下に置かれる事になりました。

しかし、その地中海のちょうど真ん中にあるマルタ島という小島を支配し、徹底的にオスマン帝国に抵抗し続けるある一つの集団がありました。その名は「聖ヨハネ騎士団」 かつて1522年にロードス島において、スレイマン1世の率いる20万の大軍に果敢に抵抗し、降伏でも追放でもない「開城」という特殊な形式でロードス島を去り、その後このマルタ島に本拠を定めたキリスト教騎士団です。


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上がそのマルタ島の様子です。現在はマルタ共和国となっています。(首都はヴァレッタで人口は6300人ほど。4枚目の上空から見た写真ではかなり大きな街に見えるため、人口がもっとありそうですが、ヴァレッタは中央の旧城塞都市部分のみで、この部分の人口がこの程度なのだそうです。マルタ共和国全体の人口は40万ほど。)

この聖ヨハネ騎士団はロードス島攻防戦の後、1530年に時の神聖ローマ皇帝カール5世からオスマン帝国の海上侵攻の防衛を条件にこのマルタ島の領有を許され、30年以上の歳月をかけて堅固な城塞都市を築いていました。彼らは着々と都市の建設に勤しむと同時に、海上ではかつてロードス島近海で行っていたのと同様に周囲を航行するイスラム船を襲撃し、積荷を強奪、乗組員を人質に取り、地中海の全ての制海権の獲得を狙うスレイマン1世にとって、新たな脅威になっていました。

スレイマン1世がこの聖ヨハネ騎士団とロードス島で戦ったのは、即位して2年目の26歳の時でしたが、それから40年の時を越え、その騎士団が再び彼に手向かう勢力に復活して活動を再開したのです。

このまま彼らを野放しにしておいては、オスマン帝国による地中海の完全な掌握は実現出来ません。そこでスレイマンは、この聖ヨハネ騎士団壊滅とマルタ島奪取を企図し、1565年に再び遠征軍を差し向けました。

この時のオスマン軍の兵力はおよそ4万あまりで、それらを輸送する艦隊はおよそ190隻ほど、一方迎え撃つマルタ島の聖ヨハネ騎士団は主力の騎士たちが550騎、それに傭兵やマルタ島の島民を合わせた6千余りで、43年前のロードス島攻防戦での兵力とほぼ同じでした。

しかしこのマルタ島攻防戦は、前回のロードス島攻防戦の時とはかなりの部分で大きな違いがありました。それは戦場が帝国本土から遠く離れていた事と、オスマン軍の兵力が前回のロードス島攻防戦の5分の1程度とはるかに少ない事、そしてなんといっても帝国皇帝たるスレイマン1世自身が指揮していない事でした。

しかしそれは無理からぬ事でした。なぜならすでにこの時スレイマン帝は70歳の高齢であり、前線で自ら陣頭指揮を取れる様な年齢ではなく、また大帝国の皇帝が自ら出向くのに、マルタ島の様な小島では相手が小さすぎるという理由から、今回はスレイマン帝の宰相の一人ララ・ムスタファ・パシャがマルタ攻略軍司令官として派遣されていました。

戦いは1565年5月中旬から始まります。マルタ島に上陸したムスタファ・パシャ率いるオスマン軍はマルタ軍を城塞都市に追い詰めますが、元からそのつもりで作戦をたてていたマルタ軍の粘り強い抵抗と堅固な城塞に苦戦して戦闘は長期化、さらにオスマン艦隊の司令官と、上陸している陸上軍の司令官ムスタファ・パシャとの意見の相違がオスマン軍の作戦に混乱を招いてしまいます。(これは明らかにスレイマン帝の失敗でした。全軍を一人の司令官にトップダウンで指揮させるのではなく、陸軍と海軍でそれぞれの司令官に指揮命令系統を分けてしまったために、遠征軍は統一した作戦行動が取れなくなってしまったからです。)


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上がマルタ攻防戦を描いた絵です。複雑に入り組んだ入り江に築かれたマルタの城塞都市に、オスマン軍が攻めあぐねています。おかげでマルタ軍は時間を稼ぐ事が出来、オスマン軍は遠征軍の7割以上の損害を出し、4ヵ月後の9月に撤退を余儀なくされます。

皇帝からマルタ島の奪取を命令されたのにそれに失敗し、皇帝から預かった多くの兵を失った司令官のムスタファ・パシャは、皇帝からの激しい怒りと死刑を覚悟して帝都イスタンブールに帰還し、トプカプ宮殿で恐る恐るスレイマン帝に戦況を報告しました。しかし、意外にもそれに対して皇帝は特に無関心で、ムスタファにはこれまで通り宰相職を全うする様にと命じられただけで、これといったお咎めはなかったそうです。(これはスレイマンがもはや高齢であった事と、本来有能な将軍であったムスタファ・パシャの様な人材を失う事を避けたスレイマンの「大器」を表すものですが、当のムスタファ・パシャは運が良かったですね。ちなみに彼はその後もオスマン帝国を支える軍人として活躍しています。)

一方見事オスマン軍を撃退する事に成功し、島を守り抜いた聖ヨハネ騎士団もその被害は甚大でした。500人以上いた騎士たちのうち400名が戦死、島民も含めた戦死者は1万に達し、その復興にはかなりの時間を要する事になったからです。

この聖ヨハネ騎士団の勝利は、裏でオスマン帝国によるこれ以上の地中海侵攻を阻止したいスペインの思惑と援助もあって実現したものでしたが、それまでオスマン帝国の攻勢に対して圧される一方であったヨーロッパ諸国、とりわけ当時新興海洋王国として興隆著しかったスペイン王国に大きく自信を持たせる事になりました。なぜならいかにオスマン帝国が強大であろうとも、あくまでそれは陸上での事であり、はるかヨーロッパの西の端に位置するイベリア半島のスペインまで彼らが手を出す事は物理的に無理な事がこの戦いで実証されたからです。

そしてそれは同時に、オスマン帝国が拡大発展の限界点に達しつつあった事も露呈する事になりました。このマルタ島の戦いは、オスマン帝国という超大国が、それまでの拡大発展の曲がり角に立った最初の分水嶺ともいうべき事件でもあったのです。

次回に続きます。

花開くオスマン文化 ・ 超大国の光と影

みなさんこんにちは。

オスマン帝国歴代皇帝のうち、他の誰よりも最も優れた名君であった10代皇帝スレイマン1世が君臨していた1560年代は、それまで軍事では最強を誇っても、文化の程度は他国の模倣の域を出なかったオスマン帝国が、学問、美術、工芸、建築の諸分野で、他国に引けを取らない独自の発展と進歩を積み重ね、そしてそれが一気に花開いた黄金時代の始まりでもありました。

この時代、帝国の領土と支配地はかつてのビザンツ帝国(東ローマ帝国)最盛期の領土に匹敵するほどに拡大し、西ヨーロッパ諸国を除くその他の地域には、オスマン帝国に対抗出来るだけの力を持った国家は一つもなく、今や帝国はユーラシア最大最強の超大国として頂点を極めようとしていたのです。


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上がオスマン帝国最盛期の第10代皇帝スレイマン1世の肖像と、彼が亡くなる直前の帝国領土の地図です。(1494~1566)年を取り、恰幅の良くなった晩年の姿で描かれていますが、もともと彼は若い頃は面長で細身の美青年で、上の絵でもそれが感じられます。 もちろん彼はそうした外見だけではなく、政治、軍事両面に優れた手腕を発揮した歴代最高の名君であり、また学問と芸術、詩を愛した高い教養を持つ文化人でもありました。そうした彼の姿勢が、それまで軍事征服国家としての印象が強烈だったオスマン帝国に、成熟した独自のオスマン文化を花開かせる大きな原動力になっていったのです。

中でもスレイマン帝がその発展に最も力を入れたのが建築の分野であり、その彼の意向を受けて、実際に多くの優れた壮大な建物を造り上げた実行責任者が建築家のミマル・シナンです。


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上がそのミマル・シナンの銅像です。(1489~1588)彼はトルコ人なら誰でも知っている最高の建築家であり、彼の名のミマルとはそのまま「建築家」という意味なのだそうです。 また彼は100歳近く生きた大変長命な人物で、その長命のおかげで数多くの建築作品を残すことが出来、それが彼を本国トルコの誇る偉人にしました。

彼はもともとはオスマン皇帝の親衛隊であるイェニチェリ出身でしたが、実際に戦う戦闘部隊ではなく「工兵隊」に所属し、スレイマン帝の数々の遠征に従軍して遠征軍のための橋梁の建設に従事しました。そうした影の支えがあって皇帝の遠征は実現出来たのであり、その彼の見えない手柄を高く称賛したスレイマンは、1538年にシナンを帝室造営局長に抜擢し、その後彼はスレイマン1世、セリム2世、ムラト3世の3代の皇帝に仕え、1588年に亡くなるまで50年に亘って宮廷建築家として作品を造り続けました。

彼が手がけた建築物はなんと分かっているだけでも470を数え、その中で最も数多いのがイスラム教の祈りの場所であるモスクです。


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上が彼の代表作である主君スレイマン1世のための霊廟として捧げられた「スレイマニエ・モスク」とその内部の様子です。1枚目の写真をご覧ください。大きなドームを中心とし、その周囲の四隅にミナレットと呼ばれる高い尖塔を建てる独特のスタイルで設計されています。(このミナレットとは、この塔の上から礼拝の集合を告げる「エザーン」を流すためのものです。)この様式は後のオスマン帝国のモスク建築の典型となり、多くのモスクがこれを模倣したスタイルで造られていきます。

また2枚目と3枚目の内部のドームの写真をご覧ください。イスラムの教えにより偶像崇拝が禁じられている制約(つまりアッラーの神はもちろん人や動物を描いてはならない、神を描くのは問題外、また人や動物は個人崇拝や異教を生み出す元となる。)から、内部の装飾はイスラム独特の幾何学模様で彩られています。


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もちろん彼はこうしたモスクだけではなく、もっと実際的な建築物も数多く残しています。上はその一つで、時の大宰相ソコルル・パシャの注文で1576年に造られたボスニアのドリア川の橋です。川が増水した場合に橋梁にかかる水の抵抗を左右に分散させるため、橋梁の側面が尖った設計です。

ミマル・シナンの活躍で帝都イスタンブールには多くの壮麗な建築物が次々と建設され、それらの建築ブームによってイスタンブールは空前の好景気に沸き、周辺各国からも多くの人々が帝都に集まり、この頃イスタンブールは人口50万を超える大都市として繁栄を謳歌しました。つまりこれはスレイマン1世の経済活性政策の一環でもあったのです。

一方こうした帝国の光の部分とは対照的に、オスマン帝国の頂点に君臨するオスマン皇帝家では、恒例の後継者争いがまたも芽を吹き出し、さらにこれまでにない新たな不安要素が加わるという陰の部分の存在が大きくなろうとしていました。

その新たな不安要素とは、いつの時代も多くの権力者を惑わしてきた「女性」という存在です。

「英雄色を好む。」

とは古今東西言われてきた事ですが、このオスマン帝国最高の皇帝とされる名君スレイマン1世もその一人でした。彼もその絶大な権力で帝国内外からあらゆる美女たちをトプカプ宮殿に集め、後宮に住まわせていました。これは後に「ハレム」と呼ばれ、わが国の徳川将軍家における江戸城内の大奥と同じ機能を持つ事になりますが、そのハレムの女たちの間では、皇帝の寵愛を得ようと熾烈な争いが繰り広げられていく様になっていったからです。

スレイマン帝もそのハレムの中で愛人と戯れ、最初に愛したマヒデブランという女性との間に1515年、最初の後継者である皇子ムスタファを授かります。 このマヒデブランはスレイマンの母であり、姑であるハフサ・ハトゥンにも気に入られていたのですが、その後ハレムにオスマン帝国を大きく揺さぶる一人の女性が連れて来られます。その名は「ロクセラーナ」またの名を「ヒュッレム」とも呼ばれます。


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上がそのロクセラーナです。(1506~1558)彼女はポーランド系ロシア人で、10代半ばでイスタンブールに連れて来られたそうです。後に彼女はスレイマン帝の正式な皇后となって自らが産んだ皇子たちを次の皇帝とすべく魔女の様に暗躍していきます。

彼女は他の美女たちに比べて決して並外れた美貌ではなかった様ですが、彼女を一目見たスレイマンは彼女に一目ぼれしてしまい、以後は第1夫人のマヒデブランはおろか、他の女たちの傍にも寄り付かなくなるほど彼女にのぼせ上がってしまいます。そしてロクセラーナはスレイマン帝との間に次々と4人の皇子たちを産み、事実上の第1夫人として上り詰めてしまうのです。

この事態に皇帝の母や最初の妻であるマヒデブランが面白いはずはありません。ロクセラーナとマヒデブランの対立は日ごとに激化していきましたが、マヒデブランの後ろ盾であった皇帝の母ハフサが1534年に亡くなると、目の上のこぶが取れたロクセラーナはマヒデブランを追い落とすために、いかにも女性らしい作戦に打って出ます。なんと彼女は自らの顔に引っかき傷を作り、それをマヒデブランの仕打ちと皇帝に告げ口したのです。

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上はオスマン皇帝の居城であるトプカプ宮殿です。

すでにマヒデブランを遠ざけて久しいスレイマン帝は、マヒデブランを宮殿から追放してしまい、彼女は息子ムスタファの下に送られてしまいました。こうしてロクセラーナは、宮廷内における最大の敵を排除する事に成功したのです。

ロクセラーナの次なる敵は、マヒデブランの産んだ第1皇子ムスタファでした。彼は立派な軍人として有能な人物であり、皇帝の親衛隊であるイェニチェリをはじめ、帝国軍部に高い人気を誇っていました。

このムスタファに対抗するには彼女の産んだ4人の皇子たちはいずれも弱い人物でした。なんといってもムスタファは長男の第1皇子であり、父スレイマン1世の武人としての資質を最も良く受け継いだ人物だったからです。(もし、彼が皇帝となっていれば、オスマン帝国は別の歴史が開けていたかも知れません。)

ロクセラーナはこのムスタファ追い落としのためにあらゆる知恵を絞ります。しかし、相手は女性が生理的に最も苦手とする「軍事」に秀でた人物です。彼の周囲は強力な軍団によって厳重に警護され、暗殺や毒殺もそう簡単には行きません。そこで彼女はムスタファの軍人としての有能さを逆手に取り、これを謀略の道具に利用します。

「陛下。ムスタファ殿下は陛下の留守中に謀反を起こして父君の貴方を幽閉し、帝国を我がものにせんと遠大な計画を立てておられるご様子でございます。なにとぞお気をつけあそばされますように。」

彼女はスレイマンにこう耳打ちし、さらにあたかもムスタファが謀反を企てているかの様に宮廷内に噂を振りまいたのです。振り返ればオスマン家の歴史は親子兄弟骨肉争う後継者争いの繰り返しでした。たまたまスレイマン1世は男子の兄弟がなく、そういう悲哀を味あわずに即位出来た事はすでに述べましたが、その彼が自らの息子であるムスタファによって権力を追われるかも知れないという恐怖心を持った事は十分に想像出来ます。(長男ムスタファには、それが実現出来るだけの軍事的才能があり、それを最も良く知っていたのが父であるスレイマン自身だったからです。)

名君の誉れ高かったスレイマン1世も、このロクセラーナには完全にたぶらかされてしまいます。そして彼は1553年に大事な後継者である第1皇子ムスタファをロクセラーナの諌言通り謀反の疑いで捕え、処刑してしまうのです。

これにより帝国内における最大の敵を排除した彼女は、心置きなくスレイマンの寵愛を一身に受けられ、後は自らの産んだ皇子たちのうち、最も彼女が次の皇帝に望ましいと選んだバヤジット(彼女には上から順にメフメト、セリム、バヤジット、ジバンギルの4人の息子がいましたが、長男メフメトと末弟ジバンギルはすでに亡くなっていたため、残る2人のうち、優秀なバヤジットを次の皇帝に即位させるつもりだった様です。)を後継者としてスレイマンに指示させる様仕向ける事が彼女に残された仕事でした。

しかし、彼女は自分の息子が皇帝となる姿を見届ける事は出来ませんでした。1558年4月、稀代の悪女ロクセラーナは52歳でトプカプ宮殿で亡くなります。

ロクセラーナの死を、彼女を深く愛していたスレイマン1世は大変悲しみ、自分が死んだ時にそこに葬らせるために先に述べた大建築家ミマル・シナンに造らせていたスレイマニエ・モスクに埋葬させ、後に彼自身もそこに埋葬される事になります。

このロクセラーナの出現は、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するという悪しき伝統の先駆けとなりました。そしてそれは、長い時間をかけて慣習化され、ゆっくりとオスマン帝国自体を蝕んでいく化け物として肥大化していく事になるのです

次回に続きます。

レパントの海戦 ・ ヨーロッパ連合艦隊の勝利

みなさんこんにちは。

1558年、ハレムの女奴隷から、オスマン帝国を影で操る事実上の皇后にまで登り詰めたロクセラーナが亡くなると、オスマン皇帝家では次の帝位をめぐって恒例の後継者争いが表面化してしまいます。 この時のオスマン帝国の支配者は、歴代最高の名君で、後に「大帝」とまで称される10代皇帝スレイマン1世でしたが、亡きロクセラーナを盲目的なまでに溺愛していた彼は彼女の死を深く悲しみ、同時にその彼女が残していった「置き土産」ともいうべき2人の皇子の後継者争いに悩まされていました。

オスマン帝国自体は、スレイマン帝の行った周辺国に対する数々の軍事遠征の成功と、彼の優れた政治外交手腕に加え、皇帝自身が能力を認めた大宰相や優秀な官僚たちによる堅実な国家運営の確立、さらにこの時期に花開いた独特のオリジナリティーあふれるオスマン文化によって繁栄の絶頂期を迎えていましたが、その繁栄の頂点に君臨し、この世において手に入らないものは無い絶対的権力者であるはずのスレイマン1世自身の晩年は、先に述べた身内の不幸と周囲への猜疑心、自らの死後の帝国の行く末に対するとめどない不安にさいなまれる不幸なものだったのです。

事の起こりは彼の最愛の妻ロクセラーナが亡くなる前から火種がくすぶりだしていました。このロクセラーナについては、権謀術数渦巻くハレムの中で台頭し、スレイマンとの間に4人もの皇子に恵まれ、皇帝の寵愛を背景にオスマン帝国を動かしていた事は前回もお話しましたが、その彼女が産んだ4人の皇子のうち、帝位継承権を持つのは早世した2人を除く残りの2人の皇子である次男のセリムと三男のバヤジットでした。


しかし兄のセリムは大酒飲みの放蕩三昧であったため、母のロクセラーナはセリムと1歳しか年の違わず、セリムよりはるかに有能な弟のバヤジットをゆくゆくは皇帝とすべく画策していましたが、結局それを果たせないまま亡くなってしまいます。

彼女の死後、両者の後継争いは互いの支持者を後ろ盾として次第に激しくなっていきました。次男セリムは皇帝の親衛隊であるオスマン軍の中核イェニチェリや、大宰相ソコルル・パシャら帝国中央政府が支持し、一見セリムが有利に見えました。しかし三男バヤジットも地方の地主や農民の圧倒的な支持を得ており、数的にはバヤジットの方が多数派を押さえていたために侮れない力を持っていました。


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上が当時の帝国大宰相ソコルル・パシャです。(1506~1579)彼がセリム皇子を支持したのは、父スレイマンに似て有能なバヤジットよりも、国政に関心を持たないセリムの方が、実際の国政を預かる彼にとって都合が良いからでした。

そこでセリム派はバヤジット追い落としのために謀略をめぐらします。その首謀者はセリムの家庭教師を務めたララ・ムスタファ・パシャでした。(この人は前々回のマルタ島の戦いで島の攻略に失敗した人物です。)彼はロクセラーナ亡き後失意と悲しみに暮れる老いたスレイマン帝にバヤジットを貶める偽の手紙を見せ、それをすっかり信じ込んでしまったスレイマン帝からバヤジット更迭命令を引き出す事に成功したのです。(スレイマン帝がムスタファ・パシャの嘘を信じ込んでしまったのは、ムスタファ・パシャがロクセラーナの信任が厚かったからです。それほどまでにスレイマンは、盲目的にロクセラーナを愛していたのでしょう。)

一方いち早くセリム派の動きを察知したバヤジットは、自分の支持者からなる2万の軍勢で挙兵し、対決姿勢をあらわにしました。

こうして両者は戦闘を開始します。しかし、戦いは父スレイマン帝の圧倒的軍事支援を得ていたセリムの勝利に終わり、敗れたバヤジットは妻子とともに隣国ペルシアのサファヴィー朝に亡命を余儀なくされてしまいました。(その後、彼らはオスマン帝国との関係を悪くしたくないペルシア側の意向によりオスマン側に送還され、反逆者として処刑されてしまいます。)

こうして次の皇帝には、スレイマンの5人の皇子たちのうち、最も出来の悪いセリムが決定したのです。(それにしても、名君であったスレイマンの後継者が、最も出来の悪いセリムであったのは皮肉な事ですね。)

最晩年のスレイマン帝は1566年、この様な身内の争いを忘れようとでもするかの様に、かつて自らが最も情熱を傾けた軍事遠征に再び出発します。目的地はハプスブルク家との小競り合いが絶えないハンガリーでしたが、この時すでに彼は老いと病が進行しており、長い遠征の旅は、彼に相当な負担をかけてしまいました。そして同年9月、ハンガリー遠征の途上の陣中において、オスマン帝国最盛期の黄金時代を築いた歴代最高の皇帝スレイマン1世は71年の生涯を閉じます。

本来ならスレイマンの死をもって後継者争いが始まるところですが、すでに次の皇帝には上で述べたセリムしかいない事から、彼はなんの障害もなく即位する事が出来ました。


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上がオスマン帝国11代皇帝セリム2世(1524~1574)で、皇帝となった後にトルコの画家によって描かれたものです。彼は先に述べた様に大酒飲みの遊び好きで、肖像画でも過度の飲酒で真っ赤になった顔と肥満した身体が良く表現されていますね。弓に興じているのか後の小姓の少年が手渡す次の矢を受け取ろうとしている場面です。

このセリム2世ですが、とにかく大変な酒好きであった事くらいしか特徴が無い人物で、即位後はもっぱら狩猟とハレムにうつつを抜かして遊び暮らしていました。しかし、帝国の実際の運営はソコルル・パシャら先帝スレイマンが見出した有能な官僚たちと、同じくスレイマンが造り上げていた官僚主導による国家システムによってつつがなく運営されていました。

そんなだらしない皇帝セリム2世が、気まぐれに珍しくも命じた事があります。それは東地中海において、未だにオスマン領になっていなかったキプロス島の攻略です。


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上がそのキプロス島の位置と、首都ニコシアの街並み(人口31万)です。(現在はキプロス共和国で人口は80万)

この島は当時地中海最大の海洋都市国家ヴェネツィア共和国の領土でした。セリム2世はその島の攻略を命じたのです。では一体なぜ彼はキプロス攻略を命じたのでしょうか? その理由はなんとキプロスがワインの名産地であるからという呆れたものでした。

皇帝の無茶な命令に、国政を預かる大宰相ソコルル・パシャは、セリムを諌めてキプロス攻略を止めさせようとしますが、皇帝は聞き入れません。(ソコルル・パシャがキプロス攻略に反対した理由は、彼がオスマン帝国でも穏健派の筆頭であり、先帝スレイマンの時代の度重なる遠征により逼迫した国家財政の建て直しを図りたかったからです。またヴェネツィア側も、このキプロス島維持のために毎年多額の貢納金をオスマン帝国に支払っており、この貢納金はオスマン帝国が実際にキプロス島を統治して得られる収入を上回るものだったため、現実主義の政治家である彼はこのままヴァネツィアに「賃貸料」を支払わせていた方が良いと判断していたからでした。)

しかし、飲んだくれのセリム帝にそんな深慮遠謀などありはしません。オスマン帝国は皇帝の一存が全てを決する専制君主国家なのです。それにこれは軍部の後押しもありました。結局セリムの命によりキプロス攻略は実施され、島はオスマン帝国の10万の大軍によって占領されてしまいます。

当時キプロスには、ヴェネツィアの駐留軍と、キプロス島民を合わせて1万の防衛軍がいました。しかし彼らは、「降伏すれば身の安全は保障する。」というオスマン軍の申し入れを信じて降伏したところ、その全員が無残に虐殺されてしまったそうです。この事実は後に述べるヨーロッパ連合艦隊の将兵に、「卑怯な騙まし討ち」をしたオスマン軍への強烈な復讐心を駆り立てる事になり、それが不協和音で決して仲が良いわけではなかった混成部隊の彼らを一つにまとめる大きな力になりました。

さて、このオスマン軍のキプロス侵略に最も困ったのが元の持ち主のヴェネツィアです。このキプロス島はヴェネツィアの東地中海における海洋交易の一大拠点であり、ここを失うとその損失は計り知れないものがありました。しかし、相手は強大な専制軍事国家オスマン帝国です。本国の総人口が20万に満たない都市国家のヴェネツィアが独力で立ち向かえる相手ではありません。

海洋国家のヴェネツィアは戦時には100隻以上から成る強力な海軍を保有し、この海軍だけはその全てがヴェネツィア人で編成されていましたが、陸軍はその人口の少なさから常備軍を持つ事は出来ず、陸戦においてはその都度傭兵を金で雇うしか方法がありませんでした。今回のキプロス島奪還においても、上陸して占領しているオスマン軍と戦うには「最低でも」3万以上の陸軍が必要で、周辺各国から傭兵を大量に雇ってかき集めたとしても、せいぜい8千が関の山だったからです。

そこで彼らはヨーロッパキリスト教国にキプロス島奪還のための救援要請を呼びかけ、得意の外交戦略でオスマン帝国の脅威を言葉巧みに各国に誇大に伝えて危機感を煽り立てます。

「このままオスマン帝国を野放しにすれば、いずれ彼らは全地中海を手に入れてしまうだろう。今や我らキリスト教国家は互いの恩讐を捨て、一致団結して異教徒の侵略に立ち向かうべきである。」

とりわけヴェネツィアが頼みとしたのは、新大陸に広大な植民地を保有し、「日の沈まない帝国」を形成していたスペイン王国でした。当時のスペイン国王フェリペ2世はこれ以上のオスマン帝国の地中海進出を阻止するため、異母弟のドン・ファン・デ・アウストリアを総司令官とする大艦隊を差し向ける事を約束します。


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上が当時のスペイン王フェリペ2世です。(1527~1598)彼の時代、スペイン王国は最盛期を迎えており、同じく全盛時代のオスマン帝国との対決は歴史上の必然でした。また彼は父である神聖ローマ皇帝カール5世から継承した地上における「キリスト教の守護者」としての務めを忠実に果たそうとした狂信的なまでのカトリックであり、それはやがてイギリスとの熾烈な海洋戦争に発展していく事になります。(いずれその辺りも別の機会に新たなテーマを設けてお話したいと思います。)

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そして上がフェリペ2世の弟であるドン・ファン・デ・アウストリアです。(1547~1578)彼はフェリペの父である神聖ローマ皇帝カール5世が、ドイツの女性に産ませたいわば「私生児」でした。母親は自堕落な性格で、彼を案じた父カールによって忠実な家臣に預けられて大切に育てられ、真面目な性格の兄フェリペも彼を弟と認めて正式に王室の一員に加えています。やがて彼は軍人としての才能を発揮し、フェリペはその弟を対オスマン艦隊の総司令官に任命します。(しかし、フェリペ2世が彼を総司令官に任じたのは、この腹違いの弟を信用していたからではなく、政治より軍事を好むこの弟が宮廷近くにいては争乱の元になる事を憂慮し、なるべくスペイン本国から遠ざけて置きたかったのが目的の様です。)

ヴェネツィアが味方に取り込んだ同盟国はスペインだけではありません。かつては彼らの最大のライバルであったジェノヴァやトスカーナ、サヴォイア、ウルビーノなどのイタリア都市国家群、それにマルタの戦いでオスマン軍を撃退したマルタ騎士団、もちろんローマ教皇国も含まれており、それらの同盟国全ての艦隊を合計した戦力は兵員2万2千、艦艇は300隻を越える大艦隊でした。(兵力は純粋に戦う兵力のみであり、船を操る乗組員を含めると、実際の人数は3倍程度に膨らみます。オスマン側も同様です。)

彼ら同盟国はイタリアに集結して一大連合艦隊を結成し、一路キプロス奪還のためギリシャ沿岸を目指します。

一方ヨーロッパ連合艦隊来襲の報に接したオスマン帝国も、ほぼ同数の大艦隊と兵員2万6千を動員して迎撃態勢を整えていました。こうして1571年10月、両軍はギリシャ西岸のコリント湾のレパント沖で激突します。「レパントの海戦」の始まりです。


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上がレパントの海戦の舞台となったコリント湾と海戦の様子を描いた絵です。かつてこの沖合いで600隻を越える大艦隊同士の決戦が繰り広げられたのです。そして3枚目の画像は当時の一般的なガレー軍船です。艦橋は布地を張った屋根を設けただけの簡素なものですが、これが標準的なものだった様です。

レパントの海戦 (新潮文庫)

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このレパントの海戦について詳しくお知りになりたい方は、上の塩野七生さんの本が良書です。ページ数は270ページ余りで、艦隊の細かい編成が詳細に書かれている所は戦史戦力研究の資料として貴重です。

海戦は双方の艦艇の多さから激烈を極めましたが、大型艦艇を多く動員したヨーロッパ連合艦隊が、小型艦が主力のオスマン艦隊を次々に撃破し、海戦はヨーロッパ連合艦隊の大勝利に終わりました。オスマン側は参加艦艇のうち25隻が沈み、実に210隻もの艦艇が包囲されて降伏、残存艦艇は逃走してしまい、戦死5千と2万以上のオスマン兵が捕虜になってしまいます。これに対してヨーロッパ側の損害は戦死こそ7千余りとオスマン軍を上回ったものの、艦艇の喪失はわずか12隻で、それをはるかに越える大量の軍船を敵から奪い取る事に成功しました。(これらの艦艇は、後に勝利したヨーロッパ各国で分配されました。)

この海戦におけるオスマン軍大敗の原因はなんでしょうか? それは先に述べた様にオスマン艦隊がヨーロッパ艦隊に比べて小型艦が多く、大型艦が主力のヨーロッパ艦隊に蹴散らされたのが1つの理由ですが、もう1つ大きな要因があります。それはヨーロッパ軍は船の漕ぎ手に金で雇った自由民を使っていたのに、オスマン軍ではガレー船の漕ぎ手にキリスト教徒を奴隷として酷使していたという点です。彼らはオスマン軍がヨーロッパ軍と互いの船同士に乗り移り、海の上で大乱戦となっている最中にヨーロッパ軍によって手足の鎖を解かれ、自由になると、今度はこれまで奴隷として酷使してきたオスマン軍への復讐とばかりに次々とオスマン兵に襲い掛かったのです。

しかし、この戦いにおけるヨーロッパ連合軍(というよりヴェネツィア)の目的であったキプロス島奪還は果たせず、キプロスはそのままオスマン領になってしまいます。ヴェネツィア政府首脳のがっかりした姿が目に浮かびますね。(笑)

この海戦の勝利は、長くオスマン帝国の脅威に怯えていたヨーロッパの人々を大きく喜ばせました。思い起こせば1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル攻略によってキリスト教国家ビザンツ帝国が滅亡して以来、120年近くに亘って敗退を続けてきたヨーロッパ諸国は、

「オスマン帝国には勝てない。とても敵わない。」

という気弱な固定観念がすっかり定着してしまっていました。しかし、その常識が今回初めて覆されたのです。これはヨーロッパの人々に、オスマン帝国といえども完璧ではなく、弱点もあるのだという事を現実として認識させる最初のターニングポイントとなり、ただただ恐ろしい敵とだけ思っていたオスマン帝国に対して、断固たる決意で協力して立ち向かえば勝つ事も出来るのだと気付かせる記念的大勝利ともなりました。

しかし、いかに大勝利とはいえたった一度の事でその後の歴史が変わるほど、現実はヨーロッパ諸国にすぐには有利に運びませんでした。なぜなら敗れたオスマン帝国もさるものです。帝国は大宰相ソコルル・パシャ主導の下で、海戦の翌年の1572年には海軍の再建に取り掛かり、同年中にもう250隻もの大艦隊を海に浮かべていたからです。

一般的な歴史では、このレパントの海戦の敗北からオスマン帝国の衰退が始まったかの様な考察が行われていますが、実際に帝国が衰退していくのはまだ100年以上先の事であり、その後もヨーロッパはじめ地中海周辺国へのオスマン帝国が及ぼす影響力は強大であり続けました。

最後にもう一つお話しておきましょう。今回のそもそもの発端であるキプロス攻略を命じた張本人の皇帝セリム2世ですが、彼は1574年12月、ワインを1瓶飲み干した後にトプカプ宮殿の新築された浴場に行き、濡れたタイルで滑って頭を打ち付け、意識不明のまま10日後に崩御してしまいました。その彼が最後に飲んだのは、他ならぬキプロスのワインだったそうです。

次回に続きます。

堕落するオスマン帝国 ・ 堕ちて行く皇帝たち

みなさんこんにちは。

1571年10月にギリシャ西岸部で行われたヨーロッパ連合艦隊と、オスマン帝国艦隊との大海戦、いわゆる「レパントの海戦」は、ヨーロッパ連合艦隊の大勝利に終わりました。

この海戦のきっかけとなったそもそもの発端は、前回もお話した様に時のオスマン帝国11代皇帝セリム2世の命による、オスマン軍のヴェネツィア領キプロス島への侵攻でしたが、強大なオスマン帝国軍に対して人口の少ない海洋都市国家に過ぎないヴェネツィア共和国では一国でオスマン帝国からキプロス島を奪還出来ない事から、ヴェネツィアは得意の外交戦略によってヨーロッパ諸国に救援を求め、当時最盛期を迎えていたスペインを主力とする一大連合艦隊を結成してオスマン帝国の大艦隊と激戦を繰り広げ、見事な大勝利を収めたのです。

しかし、海戦には勝利したものの、ヴェネツィアが最も期待した本来の目的であるキプロス奪還は果たせず、多数の敵船を拿捕して参加国で分配し、奴隷として酷使されていた多勢のキリスト教徒たちの解放に成功したというだけで、ヴェネツィアにとっては物理的には見返りの少ない、それどころか莫大な臨時戦費と人的損失による大きなマイナスという結果に終わってしまいます。(ただしそれは一時的なもので、この戦いの後にヴェネツィアとオスマン帝国は講和条約を結び、1644年に再び両国が開戦するまで73年間に亘る長期の平和を得る事が出来ました。そしてその間にオスマン帝国との通商を再開したヴェネツィアは大きな利益を上げ続け、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」の繁栄を続けていくのです。)

ただこの海戦の歴史上の意義はそれだけではありませんでした。なぜならオスマン帝国の興隆以来、拡大し続けた彼らに対して幾度と無く敗北と敗退を重ね、防戦一方であったヨーロッパ諸国が、この戦いにおいて「史上初めて」と言えるほどの完膚なきまでの大勝を収めたからです。この海戦の勝利のニュースはたちまち全ヨーロッパに知れ渡り、各国でそれぞれ戦勝を祝う式典が催され、遠くはオスマン帝国の脅威とは距離的にあり得ないはずのイギリスの人々まで狂喜させるほど、ヨーロッパの人々に与えたその心理的効果は絶大なものがありました。

それに対して敗れたオスマン帝国にとっては、この敗北はたしかに不快なものではありましたが、すでにアジア、アフリカ、ヨーロッパ3大陸にまたがる広大な領域国家に拡大していた帝国にとっては、あくまで局地的な敗北という認識しか持ち合わせていませんでした。

「我らはヒゲを切り落とされたに過ぎない。だがヒゲはすぐにまた伸びてくる。」

これは当時オスマン帝国の大宰相であったソコルル・パシャの発言です。優れた政治家であった彼は一見ユーモアのあるものの言い方をしていますが、「こちらはまたいつでも、いくらでも戦い続ける事が出来るのだぞ。」という意味が強く含まれていますね。


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上はこの頃のオスマン帝国の領域図です。

そんな彼の自信とは裏腹に、当の帝国はそれまでとは違う方向へ向かう大きな転換点の時期にさしかかっていました。それはこれまで当ブログでお話してきた今回のテーマであるオスマン帝国の興亡の歴史において、それまで帝国を主導してきた歴代皇帝たちの質が、この時期を境に急速に堕ちていくのです。そしてそれはオスマン帝国を、それまでの強大な軍事征服国家から、「図体が大きいだけで規律も統制も無い」異質なものへと変貌させていくきっかけとなりました。

まず先に述べたキプロス攻略を命じてヨーロッパ諸国との無用な先端を開いてしまった11代皇帝セリム2世(1524~1574)ですが、彼は前回もお話した様に大酒飲みの遊び好きで、国政を先の大宰相ソコルル・パシャらに任せて遊び惚け、皇帝として何らの業績もほとんど残さず、挙句には酔って風呂で転倒し、頭を打ってそのまま亡くなるといういささかマヌケな最後を迎えた無能な人物でした。

オスマン皇帝家では、帝祖であるオスマン1世以来代々の皇帝たちは程度の差はあれ、それぞれに文武両道に優れた人物が続き、国を拡大させていったのですが、その家系の伝統もセリムの父である10代皇帝スレイマン1世を最後に途絶えてしまい、その息子であるセリム2世の代から、オスマン家では彼に代表される無能で怠惰な君主による帝位継承が繰り返されていく事になります。

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12代皇帝ムラト3世(1546~1595)

セリム2世の子、父セリム2世の死により28歳で即位、父と同じく国政に関心を示さず、ハレムで美女たちとの享楽に溺れ、それによる性病感染により崩御。

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13代皇帝メフメト3世(1566~1603)

ムラト3世の子、29歳で即位、暴飲暴食により38歳で崩御。

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14代皇帝アフメト1世(1590~1617)

メフメト3世の子、父帝が早死にしたため13歳で即位、彼自身は語学に堪能な詩を愛する文化人で、さらに人柄も温厚で周囲にも慕われ、それまで歴代オスマン家では恒例であった帝位継承の際の他の兄弟の処刑を廃し、「黄金の鳥かご」と呼ばれた宮殿内の一画への幽閉(「幽閉」といっても、その一画を出られないというだけで、それ以外の生活は何不自由の無い豪勢なものだった様です。)に留め、後の帝位継承の際の内乱を宮廷内だけに抑える事に成功し、オスマン家では久しぶりの名君誕生かと期待されましたが、残念ながらチフスによって27歳の若さで崩御。

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15代皇帝ムスタファ1世(1592~1639)

14代皇帝アフメト1世の弟、幼少時から精神病を患い、その弟を不憫に思った兄帝アフメト1世によって先の「黄金の鳥かご」が作られました。しかし保護者であったその兄帝の死後一旦は帝位を継承するものの、そもそも社会的生活が出来ない障害者であり、退位と復位を繰り返させられた挙句47歳で崩御。(病的なまでの女性嫌いで当然子孫はなし。)

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16代皇帝オスマン2世(1604~1622)

14代皇帝アフメト1世の子、14歳で即位、皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」の改革を試みようとした最初の皇帝でしたが、その若さゆえに支持が得られず、逆にそれを阻止ししようとしたイェニチェリの将校らによって暗殺。

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17代皇帝ムラト4世(1612~1640)

同じくアフメト1世の子でオスマン2世の弟、オスマン家では久しぶりに軍事に秀でた勇敢な人物で、隣国サファヴィー朝ペルシア王国との戦いで自ら陣頭指揮に立つ。しかしその反面残忍な部分もあり、27歳の若さで病死。(彼は酒とタバコとコーヒーを極度に嫌い、特にタバコは彼の在位中3万人もの逮捕者を出したそうです。)

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18代皇帝イブラヒム(1615~1648)

同じくアフメト1世の子、「狂人皇帝」ともあだ名される人物。宮殿内の帝位継承の際の陰謀により兄弟たちが死んでいく様を見て育つうちに精神を病み、即位当初は慈悲深く貧しい人々を助ける事に努めましたが、皇帝に力を持たせたくない宰相らの抵抗で挫折すると、次第に常軌を逸した奇行に走る様になり、ハレムにいた側妾や女官、宦官ら280人を皆袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込むという暴挙を行いました。これによって彼は人心を完全に失い、廃位の後暗殺。(彼の名はオスマン家でも忌まわしい人物として記憶され、そのため後に皇帝となる皇子たちに、彼の名「イブラヒム」が名付けられる事は無かったそうです。)

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19代皇帝メフメト4世(1642~1693)

先帝イブラヒムの子、大変な狩猟好きだった以外に特徴がありませんが、彼の在位中に大宰相カラ・ムスタファ・パシャによる15万の大軍を動員した154年ぶりとなる第2回目のウィーン包囲戦が行われています。しかしウィーン防衛軍の頑強な抵抗と救援に駆けつけてきたヨーロッパ各国の連合軍による奇襲で作戦は失敗。その後オスマン帝国に対して攻勢を開始したハプスブルク家のオーストリアに対して敗退を重ね、やがて退位の後幽閉先で崩御。

以上駆け足でセリム2世以後、途中まで歴代皇帝たちの経歴を述べてきましたが、14代皇帝アフメト1世を除いては、凡人や怠惰な人物、性急な改革による失敗者、精神を病んだ無能な君主などが続いた事がお分かりいただけることでしょう。

しかし、オスマン帝国の国家としての運営自体は、この様な皇帝たちが続いてもつつがなく成されていました。なぜなら帝国は、大宰相と有能な官僚たちによる国家行政システムがすでに確立されており、彼らにしてみれば、無能な皇帝でも玉座に座っていてくれれば誰でも良かったのです。

つまり、この時期のオスマン帝国は、それまでの皇帝個人の裁量による専制的な国のあり方から、大宰相らをはじめとする政治官僚たちが国を動かす「官僚国家」へと変貌していった時期でもありました。

また、帝国内で強大な勢力に発展していたある2つの集団が勢力を拡大し、それらが長い時間をかけて徐々に帝国を蝕んでいく存在となっていった事も見逃せないでしょう。

その2つの存在とは、皇帝の親衛隊である「イェニチェリ」軍団と、皇帝の後宮である「ハレム」の女たちです。


Estambul_Dolmabahce_Parada.jpg

上は現在トルコのイスタンブールで観光用に再現されているかつてのイェニチェリ軍団の軍楽隊です。

このイェニチェリは、これまで何度も述べて来た様に、元はキリスト教徒の奴隷少年たちをイスラム教徒に改宗させ、オスマン皇帝個人にその命を捧げ、皇帝を警護すると共に、皇帝が直接遠征する場合にはその先頭に立って戦うオスマン帝国軍でも中核となる最強部隊でしたが、先に述べた様に無能な皇帝たちが続き、戦よりも国家の安定を図ろうとする大宰相ら官僚たちの帝国中央政府の政策によって対外戦争が減ると、活躍の場をなくした彼らは次第に自分たちの利益を追求する利己的集団へと変化していきます。

それはイェニチェリが常に皇帝のそばにいる事を良い事に、自分たちに都合の良い皇帝を即位させて帝国を動かし、その皇帝が役立たずか、逆にイェニチェリを抑え込む行為に及べば、直ちにクーデターを起こしてこれを挿げ替え、新帝を擁立してしまうというものでした。

このイェニチェリは常備1万程度であったものが、1600年代前半の最盛期には最大3万7千あまりにまで膨れ上がり、これには皇帝はもちろん大宰相ら帝国政府の官僚たちも、うかつに手を出せない巨大な存在となってしまいます。(「飼い犬に手をかまれる」とはまさにこの事ですね。)

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2つ目の存在であるハレムは、元は皇帝の憩いと肉体的快楽の場として造られたものである事はこれまで述べてきましたが、このハレムは当然ながら帝位継承者を造り出す場所でもありました。とにかく皇帝の子を産めば、やがてその子が皇帝となり、その皇帝の母として宮廷内で絶大な権力を握れるのです。そのためハレムの女たちは熾烈な女の戦いを繰り広げていき、念願叶って皇帝の寵愛を受け、その子を産んでも、その子が確実に帝位を継げる様に、宰相ら政府要人や、イェニチェリの将校らと結託して暗殺、謀殺、毒殺、贈賄など数々の謀略を図っていく様になるのです。

そして、オスマン帝国がこうした内向きの国内問題で徐々に弱体化と内部腐敗が進んでいくうちに、世界の情勢もめまぐるしく変わっていきます。すでに暗黒の中世は終わり、ルネサンスと大航海時代の到来を経て、ヨーロッパ諸国は自ら船団を世界中に送ってその活動範囲を世界中に広げ、もはや世界の中心は西ヨーロッパ諸国に移っていました。そしてそれは、長く世界の中心であり続けてきた地中海が、単なる一地域に成り下がり、その地中海をまたがる形で君臨していたオスマン帝国も、単なる地域大国としての存在でしかなくなってしまう過渡期でもありました。

次回に続きます。
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